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掲載日:2026年2月26日
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前回、児玉地域において、養蚕業が地域経済やインフラの整備に影響を与えていたことを紹介した。では、この地域で養蚕を行ってきた人々の生活はどのようなものだったのだろうか。
筆者は仕事、あるいは趣味として児玉郡周辺のかつて養蚕農家だった家の人々からお話をうかがうことがある。もっとも郡市内で養蚕が盛んに行われていたのは昭和40年代以前のことだから、今から50年以上も昔の話になる。その多くは養蚕の手伝いをするのが嫌で逃げていた話や、リヤカーを引いて製糸工場に繭を搬入する親の様子を眺めたというような子供の頃に目にしたおぼろげな記憶が多い。
しかし、かつての農村の風景を思い起こさせる牧歌的な話を聞くことはまことに楽しく、また、ごくまれに実際に養蚕に携わっていた当事者からもお話をうかがう幸運に恵まれることもある。
児玉地域の養蚕の話で最も多く耳にするのは、春から夏にかけての飼育の最中の様子である。蚕はとても弱く繊細な虫なので、上質な繭を収穫するには人間の管理が不可欠である。また、農家の規模にもよるが、一度の飼育で数千から数万頭という途方もない数の蚕を飼育し、それらを殺さずに安定して育てることがその年の収入に直結していた。そのため、養蚕農家たちは目の届きやすい自宅の中で蚕に寄り添うように養蚕を行ったのである。

▲昭和初頭の養蚕風景(上里町大字神保原町/小野英彦氏提供)
農家たちは養蚕の期間中(春~夏)は毎日、朝から晩まで近所の桑園に桑取りに行き、青々とした葉の付いた枝を大量に取ってくる。その作業は「クワツミカゴ」や「ザマ」とよばれる大きな竹の籠(写真)を背負って家族総出、時には人を雇ってまでして行われた。蚕が早く大きくなるようにと、夜間まで何度も桑を与え続けるためである。その労働は過酷であった。上里町の元養蚕農家の女性の話では、桑取りをしていると、いつの間にか肌がかぶれる等、慢性的な体調不良に見舞われるようになったという。彼女はそれを「クワッカブレ」と呼んでいたが、今でいう、アレルギーの症状と見て間違いない。彼女はそんな症状が出ても養蚕を止めることはできず、地域で養蚕が行われなくなるまで作業に携わり続けた。
蚕たちはそんな苦労もいざ知らず、与えられた桑に群がると「ザアザア」と音を立てて葉を貪り食った。養蚕の時期はどこの養蚕農家でも外で大粒の雨が降るような不思議な音が終始、家中にこだまする。日本語で他の領域を片端から浸食していくことを「蚕食(さんしょく)」と表現するが、この様子こそ、まさしく「蚕食」であった。
また春先は気温が下がり、蚕が桑を食べなくなると火鉢やストーブで蚕室を温める必要が生じる。これは時として命がけの作業であった。特に燃料に使われた木炭や練炭は、不完全燃焼を起こしやすく、最悪の場合、一酸化炭素中毒によって作業者が死亡する危険すらはらんでいた。実際に筆者は一酸化炭素中毒によって蚕室内で倒れた女性から話をうかがったこともある。幸い、彼女は発見が早く、大事には至らなかったが、その後遺症でしばらく体調不良が続いたという。養蚕は危険とも隣り合わせだったのである。

▲クワツミカゴ・ザマ(桑摘みに用いた。大きさは子供が入れるくらい大きい)
【参考文献】
上里町史編集専門委員会編『上里町史』別巻 1998年