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掲載日:2023年11月1日

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中山道最大の宿『本庄宿』の再発見 vol.3

傍示堂集落センター~大正院

江戸時代はこんな感じ

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拡大図(JPG:3,374KB)

 

これが現在 

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(JPG:4,001KB)

※この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。
(承認番号 平28情複 第1079号)

傍爾堂村(本庄市傍示堂)

ちょっと変わった地名である。
傍爾堂村から中山道は大きく南に道をとるが、ここから北西に分岐する街道は、上野国の前橋・沼田を通って越後方面へと達していた(五料道)。
傍示とは境界を示すことを意味し、地名の由来は、二つの街道の分岐点に仏堂を建立し、街道の傍示としたことに由来する。
前橋方面への分岐点であることから、この辺りには、茶屋が4軒ほどあり、飯・酒・菓子などを商っていた。

現在の傍示堂集落センターにある小さな御堂が傍示堂で、隣には天王祠が祀られている。
1615年の参勤交代の制度化により五街道が整備され、本庄も宿場町として発展したが、それまでは深谷方面から来た大名などは、傍示堂村から本庄宿ではなく北西に分岐する街道を(現在の群馬県玉村町方向に)進んだらしい。
「徳川時代之武蔵本庄」によると、「本庄には旅館の設備がなかったため、江戸参勤の大小名は傍示堂より五料村(現在の玉村町五料)に転じ、加賀藩前田家は上州川合(現在の玉村町川合)河岸に本陣(旅館)を設けていた云々」とある。


傍示堂(右側)
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急カーブを左に曲がり、元小山川の石橋を渡って右カーブを進むと国道17号に出る。
資料(中山道分間延絵図)によると、当時はこの辺に「御料傍示杭」があり、ここから「本庄宿」に入る。

御堂坂から本庄市街を望む

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御堂坂 

国道17号を渡り、本庄宿に入って最初に渡るのが馬喰橋(現在のセブンイレブンの東側)。
現在橋はなく、水路も細い道路に変わっているが、中山道分間延絵図によるとここに水路があり、豪商の戸谷半兵衛が私費で架けた石橋があった。
ところで、この馬喰橋には面白い話がある。
ある馬方が馬の荷稼ぎで得た金で自分だけ飲み食いし、馬には何も食べさせなかった。これに腹を立てた馬が、帰途の村境に架かる橋に差しかかったところで馬方に食いついたというものである。


この先に見える長い坂が御堂坂だ。
少し進むと左側にひっそりと庚申塔がある。気を付けていないと見過ごしてしまいそうだ。


もとの水路                                                         庚申塔

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無宿人勇吉の目籠破り

文政11年(1828年)に御堂坂で事件は起きた。
武州中瀬(現深谷市)の無宿松五郎は賭博で捕えられ、水潜人足として佐渡送りが決まった。佐渡へ護送される途中、目籠一行が御堂坂に差しかかった時、庚申塚に待ち構えていた松五郎の仲間の牧西村勇吉や松五郎の弟である竹五郎ら数人が目籠を襲撃したのだ。
襲撃者たちは目籠を破って松五郎を救い出し、それぞれ越後方面、伊勢方面などに別れて逃亡した。
しかし、人相書が各地に手配されたことにより、1か月後、勇吉や松五郎は次々と捕縛され、それぞれ刑に処せられた。
勇吉は「本庄宿にて磔」となり、刑は文政13年(1830年)1月25日に御堂坂北側において執行された。

なお、嘉永3年(1850年)に侠客国定忠治が上州大戸で磔となったが、忠治が大戸に送られる際、忠治の子分が御堂坂で囚人籠を破って親分を助けたとの言い伝えが本庄に残っている。
しかし、そのような史実はなく、無宿人牧西の勇吉による御堂坂目籠破り事件が誤って伝えられたものと言われている。

 

 

 

 

御堂坂を進み、ちょっと中山道から外れてみる。
東台4丁目の信号を右折して140mほど進むと左側に小公園がある。江戸時代には、ここに裸薬師の堂があったらしい。

 

 

裸薬師

中山道分間延絵図ではここに「裸薬師卍」と記されている。裸薬師の堂があったが、建てるたびに焼失してしまうことからこの名がついたという。現在は堂はない。
公園入口に道祖神があり、公園内に薬師如来(台町薬師如来)がある。
説明板によると、「この薬師如来は今から3、4百年前に創建され、住民から眼病に霊験あらたかであると言われ、近郷近在から祈願に訪れる人が多い。」とのこと。前期の薬師は荒廃が激しく、原形をとどめていなかったため、昭和62年に現在の石仏が建立された。
ちなみに、この公園は大正院が管理しており、毎年5月に薬師様の供養祭が行われている。

 

台町薬師如来                                                         道祖神                                         
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この小公園前の道が、江戸時代に中山道が御堂坂に開通する以前は傍示堂に至る古道だったらしい。


中山道に戻ってさらに進み、十間通り線(本庄寄居線)の「中山道交差点」を渡る。
中山道分間延絵図を見ると人家が増えており、この辺りからが実質的な本庄宿だったのだろう。

 

そもそも本庄宿って   

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ゆるいカーブを進むと左側に石材店があり、そのすぐ西側に大正院がある。

 

大正院

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大正院は、真言宗智山派に属し、天正11年(1583年)の開山である。
初め薬王山瑠璃光坊と称したが、その後、大正院と改めた。現在の本堂は昭和40年に新築したもので本堂と相対して不動堂と薬師堂がある。薬師堂は旧本堂である。また、不動堂には寺宝である不動剣が納められている。
この不動剣は、不動堂が建立されたときに奉納されたと伝えられている。剣の形象をとり、束は三鈷杵様に造られている。慶応3年(1867年)の銘があり、長谷部国治の作である。昭和54年に本庄市指定文化財となっている。
また、本庄市は養蚕で栄えたことから、大正院には大正12年に蚕蛹供養塔が建てられ、毎年、蚕蛹供養祭が開催されている。

不動剣
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ちょっと一息 

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次回は、大正院から戸谷八商店までを辿ります。 

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