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掲載日:2021年10月14日

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北方領土の歴史

日本人による北方の開拓の歴史

正保御国絵図千島列島には、もともと、アイヌと呼ばれる人々が住んでいました。
江戸時代、北海道唯一の藩として隆盛を誇った松前藩の「新羅之記録」によれば、1615年(元和元年)から1621年(元和7年)頃、メナシ地方(北海道根室地方)のアイヌの人々が、100隻近い舟に鷲の羽やラッコの毛皮などを積み込み、松前へ来て交易を営んでいたと記録されています。千島へのロシアの進出に危機感をもった幕府は、北方の島々の経営に本格的に取り組むこととし、1785年(天明5年)及び1791年(寛政3年)に最上徳内らを調査に派遣。最上らは、国後島から択捉島に渡ってロシアの南下の状況を克明に調査し、さらに得撫島に上陸して同島以北の諸島の情勢も察知しました。
ロシアの南下の動きに対して、幕府は、国防上の必要から、千島・樺太を含む蝦夷地を幕府直轄地として統治することとし、1798年(寛政10年)4月、180余名の大規模巡察隊を蝦夷地に派遣しました。このとき、支配勘定近藤重蔵の班は、最上徳内らと国後、択捉を調査し、択捉島に「大日本恵登呂府」と書いた国土標柱を建て、この年の暮に江戸に帰任しました。
翌1799年(寛政11年)から1800年(寛政12年)にかけて、近藤重蔵は高田屋嘉兵衛らとともに再び国後島、択捉島に渡り、本土の行政のしくみをとりいれた郷村制をしいたり、漁場を開いたり、島々への航路を開いたりしました。
高田屋嘉兵衛が自分の持ち船「辰悦丸(しんえつまる)」に乗り、国後島と択捉島の間の航路を開き、択捉島に17か所の漁場を開いたのもこの頃です。
また、幕府は、択捉島以南の島々に番所を設け、外国人の侵入を防ぐために役人を常駐させました。1801年(享和元年)からは、南部藩と津軽藩の兵、各100余名が守備に当たりました。

国境の画定

ロシアと日本の争い

ロシアの南下政策が強められる一方で、幕府の警備が進められ、両国の間にはこの地方をめぐって争いや事件が起きるようになりました。
1804年(文化元年)、日本との通商を求めて、ロシア皇帝アレキサンドル1世の使節レザノフが、幕府とラクスマンとの約束を頼りに長崎に来航しました。しかし幕府がこれを拒否すると、レザノフは部下に命じて樺太や択捉島等で日本人に暴行を加えたり、日本船を襲って火を放ったりしました。
これらの行為に対して、幕府は守備の立て直しを図り、ロシア船が近づいたら打ち払うことを命じました。1811年(文化8年)、ロシア軍艦ディアナ号の艦長ゴローニン少佐らが樺太西海岸を探査し、さらに千島列島を測量して国後島の泊に上陸した際、南部藩の守備兵に捕らえられ、松前に護送、拘禁されました。
ゴローニンを取り戻すために、副艦長リコルドは努力を続けましたが、交渉は難航しました。そのため、リコルドは報復として、折から国後島付近を航行中の日本船を襲い、幕府御雇船頭高田屋嘉兵衛を捕らえました。
捕らえられた高田屋嘉兵衛は、なんとか日ロ両国の紛争を解決して和議を図ろうと努め、その奔走とあっせんによって、ゴローニンと高田屋嘉兵衛の交換釈放がなされました。
この事件をきっかけとして、両国は国境を決めるための話し合いを始めることとなりました。

日本国魯西亜国通好条約の調印

1853年(嘉永6年)、ロシア皇帝ニコライ1世はプチャーチン提督に訓令を出し長崎に派遣し、幕府に対し通商を求めるとともに、樺太と千島の国境の画定を申し入れました。プチャーチン提督はその年の11月下旬まで長崎に滞在しましたが、交渉はまとまらず、翌1854年(嘉永7年)に再び来航して交渉が行われましたが、それでも交渉はまとまりませんでした。
1855年(安政元年)2月、交渉の場を下田(静岡県)に移して交渉を続けた結果、ついに2月7日に「日本国魯西亜国通好条約」が調印され、日ロ間の国境が画定しました。
この条約によって、両国の国境は択捉島と得撫島の間に引かれ、択捉島から南の島々は日本の領土、得撫島から北の島々はロシアの領土と決まりました。
しかし、樺太については、両国とも互いに主張をゆずらなかったため、従来どおり両国民の雑居地として、国境を決めないままとなりました。

千島樺太交換条約の締結

明治政府が誕生して新しい時代を迎えた1869年(明治2年)、北方開拓のために「開拓使」が置かれ、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島は郡制の中に組み入れられました。
樺太では、ロシアが日本の根拠地に迫ってきたため、樺太を北上して漁場を拡張しつつあった日本人との間に紛争が絶えませんでした。ロシア人は確実に要所を狙って植民地を建設していくのに対して、日本は漁場の拡張に主眼を置いていたため、次第に圧迫されるようになりました。
このような現状を打破するため、明治政府は1874年(明治7年)に榎本武揚を特命全権大使としてロシアに派遣し、翌1875年(明治8年)5月7日、ロシア全権ゴルチャコフ外務大臣との間で「樺太千島交換条約」を締結しました。
この条約によって、「日魯通好条約」で両国民混住の地とされた樺太全島はロシア領となり、その代りに、ロシア領であったクリル諸島(得撫島から占守島までの18島)が日本の領土となりました。

日露講和条約(ポーツマス講和条約)の調印

日露戦争は、1904年(明治37年)2月に始まり、翌年8月にアメリカのルーズヴェルト大統領のあっせんによってポーツマス講和会議が開かれるまで、18か月にわたって日本とロシアの間で戦われました。
1か月に及び交渉が行われた結果、1905年(明治38年)9月5日に「日露講和条約(ポーツマス講和条約)」調印、同年10月16日に批准され、11月25日にワシントンで批准書が交換されました。
この条約によって、樺太の北緯50度より南の部分は、ロシアから日本に譲渡されました。

ソ連の不法占拠

ソ連の対日宣戦布告

1941年(昭和16年)、日本はアメリカやイギリスを相手に戦争を始めました。緒戦こそ日本優勢で戦いが進められましたが、しだいに日本の敗戦の色が濃くなってきました。
1945年(昭和20年)4月5日、ソ連のモロトフ外相は、佐藤駐ソ大使に対し、1941年(昭和16年)4月25日に日ソ両国で批准した「日ソ中立条約」の不延長を通告してきました。
そして、同年8月8日にモロトフ外相は、クレムリンに佐藤駐ソ大使を呼び、8月9日から日本と戦争状態になることを通告し、宣戦布告しました。
佐藤駐ソ大使は、宣戦布告を直ちに東京に打電しましたが、この公電は日本に到着していませんでした。そのため、日本政府はソ連の宣戦布告をすぐに知ることができませんでした。

ソ連の侵攻開始

宣戦布告がまだ日本政府に達していない8月9日未明、ワシレフスキー将軍の率いる160万のソ連極東軍は、ソ連と満州の国境、モンゴル、ウラジオストク、ハバロフスクの3方面から総攻撃を開始しました。これは、「日ソ中立条約」の有効期限内(1946年4月25日失効)のことでした。
また、樺太では、バーツロフ大将の指揮する約35,000人が、8月11日に北緯50度の国境を越えて侵入したため、約20,000人の日本軍と戦闘になりました。
8月14日、日本は「ポツダム宣言」を受諾して無条件降伏しました。

ソ連の占守島上陸

8月16日にグネチコ将軍の指揮するソ連軍がカムチャツカ方面から行動を開始し、8月18日には占守(しゅむしゅ)島に上陸、約25,000人の日本守備隊と交戦しました。しかし、日本軍は北部方面軍司令部の命令により交戦を中止し、8月23日に日ソ両軍現地停戦協定を締結し、武器をソ連軍に引き渡しました。

得撫(うるっぷ)島の占領

その後も、ソ連軍は千島列島各地に駐屯する日本兵を武装解除しながら南下を続け、8月31日までに得撫(うるっぷ)島の占領を完了しました。

北方四島を占領

また、ソ連軍は、8月28日に択捉島に上陸、9月1日には国後島、色丹島に達し、9月3日には歯舞群島にまでおよび、9月5日までにことごとく占領しました。
なお、9月2日には、東京湾上の戦艦「ミズーリ」甲板で、ソ連代表も参加して降伏文書の調印式が行われました。
翌1946年(昭和21年)2月2日、ソ連は「南サハリン州の設置に関するソ連邦最高会議幹部会令」を発し、北方四島を自国領に編入してしまいました。
島で生活をしていた人々の中には、北海道本島との連絡が途絶えてしまったため不安にかられ、危険をおかして脱出した人もいました。住み慣れた故郷を捨てきれず島に残った人々も、1947年(昭和22年)から1949年(昭和24年)にかけて、強制的に日本本土に引き揚げさせられました。

日ソ国交の回復

サンフランシスコ平和条約

サンフランシスコ平和条約署名の様子1951年(昭和26年)9月4日、ソ連を含む52か国が参加してサンフランシスコ講和会議が開催されました。9月8日に、日本と、ソ連等を除く48か国との間で「サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)」が署名され、翌1952年(昭和27年)4月28日に発効されました。これにより日本は主権を回復し、国際社会へ復帰することとなりました。
同条約第2条(C)では、「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」と規定されています。
このサンフランシスコ講和会議において、日本の吉田全権は、歯舞群島、色丹島が日本本土の一部を構成するものであることはもちろん、国後、択捉両島が昔から日本領土だった事実について会議参加者の注意を喚起しました。また、米国のダレス全権は、ポツダム降伏条件が日本及び連合国全体を拘束する唯一の講和条約であること、したがって、いくつかの連合国の間には私的了解がありましたが、日本も他の連合国もこれらの了解には拘束されないことを表明しました。

日ソ共同宣言での国交回復

日ソ共同宣言署名の様子「サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)」への署名を拒否したソ連と個別に平和条約を結ぶため、交渉を行いましたが、領土問題では、行き詰まりました。
米国政府は、日ソ交渉に対する米国覚書の中で「択捉、国後両島は(北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島とともに)常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論に達した。」と日本の立場を支持しました。
日本政府はこれまでの交渉の経過に鑑み、領土問題について意見の一致をみることは困難であると判断し、鳩山首相は、同年9月11日付けで「この際領土問題に関する交渉は後日継続して行うことを条件として、両国間の戦争状態終了、大使館の相互設置、抑留者の即時送還、漁業条約の発効、日本国の国際連合加盟に対するソ連邦の支持の5点について、あらかじめソ連邦の同意が得られれば両国間の国交正常化の実現のため交渉に入る用意がある」との主旨の書簡をブルガーニン議長に送り、これに対して、ブルガーニン議長は「この際平和条約を締結することなく日ソ関係の正常化に関する交渉をモスクワにおいて再開する用意がある」との書簡を同年9月13日付けで送りました。
この往復書簡の後、同年9月29日の「松本・グロムイコ書簡」によって、領土問題を含む平和条約締結に関する交渉は両国間の正常な外交関係の再開後に継続されることが合意成立しました。これを受けて、戦争状態の終結と国交回復を図るための交渉に切り替えられ、同年10月19日に「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」が署名(同年12月12日発効)され、日ソ間に国交が回復しました。
この共同宣言第9項では、「両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。」と規定されています。

日ソ共同宣言後の日露関係の主な動き

日ソ共同声明(1991年)

1991年4月海部総理とゴルバチョフ大統領により署名されました。
北方四島が、平和条約において解決されるべき領土問題の対象であることが初めて確認されました。

東京宣言(1993年)

1993年10月、細川総理とエリツィン大統領により署名されました。
領土問題を、北方四島の島名を列挙して、その帰属に関する問題と位置づけるとともに、領土問題解決のための交渉指針が示されました。
また、日ソ間のすべての国際約束が、日露間で引き続き適用されることを確認しました。

クラスノヤルスク合意(1997年)

1997年11月、橋本総理とエリツィン大統領の間で、東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くすことで一致しました。

川奈合意(1998年)

1998年4月、橋本総理とエリツィン大統領の間で、平和条約に関し、東京宣言に基づいて四島の帰属の問題を解決することを内容とし、21世紀に向けた日露の友好協力に関する原則等を盛り込むことで一致しました。

イルクーツク声明(2001年)

2001年3月、森総理とプーチン大統領により署名されました。
日ソ共同宣言が交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書であることを確認しました。その上で、東京宣言に基づいて四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結すべきことを再確認しました。

日露行動計画(2003年)

2003年1月、小泉総理とプーチン大統領により採択されました。日ソ共同宣言、東京宣言、イルクーツク声明及びその他の諸合意が、四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結し、両国関係を完全に正常化することを目的とした交渉における基礎と認識し、交渉を加速することを確認しました。

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