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掲載日:2021年9月15日

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北方領土返還要求の運動の歴史

北方領土返還要求運動のはじまり

安藤根室町長らによる陳情は北方領土返還要求運動の原点

島民の引き揚げの様子1945年(昭和20年)7月15日、根室はアメリカ軍の艦載機による攻撃を受け、市街地の8割を焼失し、被災者約11,000人を出す被害を受けました。
また、当時、北方領土の島々には約17,000人の日本人が住んでいましたが、ソ連の対日参戦に伴い、不安と恐怖のあまり次々に島を脱出し、安住の地を求めて根室へやってきました。
このような状況の中で、根室町長の安藤石典は、戦災者の救助のみならず、ソ連によって不法に占拠された北方領土からの引揚者の受入対策を全面的に取り上げ、援護の手を差し延べるとともに、北方領土返還運動推進の陣頭指揮を執りました。
1945年(昭和20年)11月1日、地理的にも歴史的にも北海道に附属する北方領土を米軍の保障占領下に置いて治安の回復を図ることを目的として、「北海道附属島嶼復帰懇請委員会」結成の動きが根室町に起こり、安藤町長は、色丹島から脱出してきた小泉秀吉、川端元治根室漁業会会長、竹村孝太郎歯舞漁業会会長らの協力を得て、連合国への陳情計画を進めました。
そして、同年12月1日、安藤町長の名において、連合国最高司令官マッカーサー元帥に対し、北方領土の返還を求める陳情を行いました。

全国への運動の広がり

マッカーサー元帥に宛てた陳情書北方領土に隣接する根室で起こった北方領土返還要求の声は、やがて北海道全域に広がり、さらに全国各地に広がっていきました。
1947年(昭和22年)7月22日、北海道議会は、北海道の一部を構成していた北方領土の返還を求める道民世論を受けて、「歯舞諸島及び択捉島並びに国後島の日本領土復帰に関する請願」を決議し、マッカーサー元帥に懇請しました。この決議が、全国の都道府県議会及び市町村議会における決議の第1号となりました。
1948年(昭和23年)3月5日には、北海道に次いで北方領土の元島民が多く居住していた富山県において、北海道外における最初の返還要求運動団体が結成されました。
また、北海道内における返還要求運動の高まりに呼応するように、1950年(昭和25年)に山梨県、長野県、鳥取県の各県議会において「歯舞諸島及び千島列島返還懇請について」の決議が行われ、その後も次々と各都道府県議会において同様の決議が行われました。

北方領土返還を求める署名活動の展開

署名活動の開始と全国への広がり

街頭署名活動1965年(昭和40年)8月15日の終戦20周年を記念し、元島民を会員とした「千島歯舞諸島居住者連盟」が主唱して、北方領土の返還を求める国民ひとりひとりの強い意志を署名に託してもらう北方領土返還要求署名活動が開始されました。この活動を全国規模に展開していくために青年団体、婦人団体、労働団体等の理解を得て、やがて全国的な草の根運動となっていきました。

署名活動は国民総意の運動のひとつ

署名簿の冊子1972年(昭和47年)3月28日、全国100万人の願いがこめられた署名簿を持って、山下亮輔千島歯舞諸島居住者連盟理事長(当時)を団長とする請願団が、初めて国会に対して北方領土返還促進に関する請願を行いました。この年以降、集められた署名は、ほぼ毎年のように、国会請願として衆議院と参議院に提出されるようになりました。
署名収集累積数は2008年(平成20年)2月に8,000万人に達しました。署名活動は、北方領土返還実現まで、国民総意の北方領土返還要求運動のひとつとして全国各地で展開されています。

北方領土返還要求運動都道府県民会議の設立

返還要求運動の推進基盤「都道府県民会議」

北方領土返還要求運動が国民運動として定着するためには、日本全国どの地域でもこの運動がしっかりと地に根を下ろすことが何よりも大切です。そのためには、各地で個々に運動を続けていた各種の団体を糾合し、領土返還を願う地域住民の声を結集するとともに、さらに多くの住民が運動に参加できる基礎を確立することが不可欠でした。この要求に応える形で、地域での返還要求運動の推進基盤として県民会議が組織されていきました。1970年(昭和45年)9月15日、北方領土、北方海域に深い関わりを持っていた宮城県において、「北方領土返還促進並びに漁業の安全操業に関する宮城県民会議」が設立されました。これは、北海道以外で初めて設立された県民会議でした。次いで、1973年(昭和48年)5月20日、青森県に「青森県北方領土返還促進協議会」が設立されました。ともに漁業その他の関係で北方領土と関係の深い県でした。

推進委員制度創設で設立が加速する「都道府県民会議」

イヤギ県民会議の設立総会の様子一方、北方領土問題について全国的な規模で啓発宣伝活動を展開していた北方領土問題対策協会は、1975年(昭和50年)10月、都道府県等地方行政機関と北方領土返還要求に係る民間団体との強力な連携の下に効果的な返還運動の推進を図るとともに、中央と地方相互間の連携強化を目的として、都道府県ごとに推進委員を委嘱する制度を設けました。
推進委員には、北方領土問題に熱意を有し、関係行政機関、関係団体等と緊密な連携を維持して効果的な運動の推進役となる人材を必要とすることから、その委嘱に当たっては、各都道府県知事の推薦を得ることとしました。
昭和50年代には、この推進委員を中心として県民会議結成の機運が各地に高まっていきました。また、都府県行政当局も地域住民の声に呼応して積極的な協力支援体制をとり、官民一体となった組織づくりを推進していきました。
そして、1987年(昭和62年)3月11日、島根県における県民会議の結成をもって、全都道府県に県民会議の設置をみるに至りました。
現在、これらの県民会議は、地域に根ざした様々な活動を展開しており、地方における運動の推進に大きな役割を果たしています。

昭和61年に設立された「埼玉県民会議」

「北方領土」の返還を求める運動が全国的に広がりを見せはじめた昭和50年代。埼玉県内においては、全国的組織を持つ団体などを中心に返還要求運動が展開されました。各都道府県に「県民会議」や「協議会」の結成が相次ぐなか、埼玉県にも県民会議の発足を求める声が日増しに高まっていきました。
そうした声に呼応するかのように、埼玉県議会では「北方領土早期返還に関する意見書」を採択し、国に対して強く要請を行いました。
埼玉県民会議発足に向けて大きな影響を与えたものに「北方領土返還要求運動連絡協議会(北連協)」(北方領土の返還を求める団体による全国協議会)があります。北連協の結成に努力され、初代議長として活躍されたのが故大友よふさん(当時、全国地域婦人団体連絡協議会会長)です。大友さんの北方領土返還への強い信念と情熱は、埼玉県の関係者にも広く影響をおよぼしていきました。
最初に結成準備会が開かれたのは1984年(昭和59年)5月のことでした。県内の婦人団体、青年団体、経営者団体そして労働団体の代表による意見の交換が行われました。これを機会に、以後活発な協議が繰り返されました。多くの団体、個人の賛向を得ながら昭和61年2月1日、「北方領土返還要求運動埼玉県民会議」が結成されました。現在15団体の会員を有し、一日も早い返還をめざして活動に取り組んでいます。

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