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掲載日:2018年12月17日

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生産振興課/埼玉県の養蚕・絹文化の継承について

蚕糸関係歴史資料

県には、農家などから寄贈を受けた蚕具類などを中心とした蚕糸関係歴史資料が多数あります。
これらの資料については、県内学校教育機関や公共展示施設などへの貸出も行っており、生きた教材として埼玉の養蚕の歴史を次世代に継承するよう努めています。是非ご利用くださいませ。

保管展示場所

片倉シルク記念館
熊谷市本石2丁目135番地
Tel:048(522)4316

この記念館は、片倉工業株式会社の最後の製糸工場であった熊谷工場跡地に、歴史的建造物である繭倉庫を活用して整備されたものです。館内には、養蚕・製糸が盛んだった頃に実際に使われていた製糸機械などを展示しているほか、写真や映像などで養蚕や製糸の工程などを紹介しています。
県の資料(蚕具類)が展示されているのは、「蜂の巣倉庫」(中央写真手前の建物)と呼ばれている倉庫で、内部が繭を選別保管するために蜂の巣のような形状をしているのが大きな特徴です。

PDF片倉シルク記念館:奥が蔵造り倉庫、手前が蜂の巣倉庫

所蔵資料の内容

栽桑部門

大鍬等耕作具、摘桑爪、桑こき器、桑摘篭、桑刈鎌等

20点

栽桑器の写真

蚕種部門

蚕種台紙、催青器、産卵器具、蚕種検査用具等

46点

蚕種台紙の写真

飼育部門

ざ桑機、飼育篭、蚕架、飼育箱、給桑篭、消毒器等

54点

飼育機の写真

上蔟営繭部門

島田蔟、竹まぶし、製蔟機、毛羽取機、選繭機等

36点

上蔟営繭の写真

製糸機織部門

繰糸機、座繰機、揚返機、撚糸機、整経機、検定用具等

62点

製糸機織の写真

その他

看板・什器類等

48点

看板・什器類の写真

図書類

写真・パネル・蚕体解剖図等

17点

図書類の写真


貸出方法

貸出機関

県内小・中学校、公共展示施設、社会教育施設、その他公共施設

貸出時期

随時(ただし、搬出入は、休日と火曜日を除きます。)

貸出期間

原則として3か月以内

貸出資料

片倉シルク記念館で展示中の資料を除く全所蔵資料

経費等

貸出は無償ですが、搬出入に関わる経費は、借受人の負担とします。
・貸出時に借用証を提出していただきます。

申込み

農林部生産振興課花き・果樹・特産・水産担当
Tel 048-830-4146

蚕糸関連の蔵書

旧県蚕業試験場に多くの蔵書があり、これらの図書については、以下の機関に移管されました。

  • 行政文書:埼玉県立文書館
  • その他の図書:埼玉県立図書館

埼玉県の養蚕の歴史

時代(和暦)西暦

主なできごと

弥生 紀元前後
崇神天皇の御代
3世紀末

大陸から養蚕機織の技術が日本に伝来
知々夫彦命が国造として秩父に来任、養蚕と機織りを教示
魏志倭人伝に栽桑・養蚕・製糸・機織の記述

古墳 6世紀頃

朝廷が東国の各地に屯倉を設置
賀美郡(現児玉町)に養蚕機織の部である長幡部を設置

飛鳥(大化) 645

大化の改新

奈良 8世紀頃

武蔵の国では、租庸調のうち調を絹で納める
遣唐使などの大陸との交易に絹織物を交換材として利用

平安(寿永) 1182

源頼朝が武蔵国円浄坊に桑田五町を寄進(吾妻鑑)

鎌倉 13世紀
14世紀

幕府が「桑代」と称して養蚕に課税(御成敗式目)
絹の需要が拡大し、絹座(鎌倉七座の一座)が興る

室町(南北朝) 貞治年間
室町(大永)1521

高麗郡内で帖絹(つむぎ)が広く生産される
熊谷で木綿市開かれる

安土桃山 16世紀末

消費都市としての城下町が発達し絹や紬の需要が高まる

江戸初期(慶長)17世紀

幕府が本田畑に対して穀類以外の栽培を排除
高麗・比企・秩父等の山岳地帯の検地で、桑にも年貢を課す
武士や町人たちの衣料として絹織物の需要が増大
※このころの高級織物の生糸は専ら輸入物が中心

江戸中期(寛永) 同 中期

幕府が白絹の輸入制限、
輸入制限以後、生糸は全国的な商品流通網に乗る
※養蚕・製糸と機織業の分離が起こる

(元禄) 同 末期

秩父・小川・飯能・越生・川越等の絹市が活発化
秩父絹・小川絹・飯能絹・越生絹・川越絹と呼称
※機織産地の勃興

(正徳三)1714
(享保)18世紀
(天明) 同 末期

幕府(新井白石)が蚕業の奨励に関する法令を出す
秩父絹が大阪で高く評価される(世宝大成万金産業袋)
本県下の絹取引が二十二万五千三百疋に及ぶ

江戸後期(天保)19世紀

絹糸取引の増大に伴い、繭のまま売却するものが現れる
※養蚕と製糸の分離が起こる
このころの本県蚕糸業は、秩父郡・入間郡・高麗郡が中心
凶作と幕政改革によって絹織物の需要が激減

(天保)1837

大飢饉
熊谷地方では「桑の葉を干し粉とし食用とした。」との記録
天保の改革、奢侈取締強化

(天保)1842
(天保)1852
(安政)1857

絹織袴地の有力産地であった川越機業が衰退
フランス・イタリアの蚕糸業が微粒子病により壊滅的打撃
渋沢宗助(深谷市)が「養蚕手引抄」を刊行

(安政)1861

横浜開港、生糸貿易が盛んになる
原善三郎(上里町)が横浜で生糸貿易に従事
※機業地でも生糸製造業が中心となる

(文久)1862

秩父の糸相場が前橋より高値を示す
※地元絹織物業者と生糸輸出業者の競争激化
飯野宗平(皆野町)が大規模な自家製糸を開始
※製糸業の勃興と繭糸業者(繭仲買人)の発生

(文久)1863

鯨井勘衛(熊谷市)が蚕種製造を始める
※蚕種業・養蚕業・製糸業の文化が強まる

(慶応)1866

鯨井勘衛(熊谷市)が荒川河原に桑園を開拓
飯野宗平(皆野町)が蚕種を輸出し莫大な利益を得る
渋沢宗助(深谷市)が輸出蚕種の仲買で莫大な利益を得る
※幕末から明治にかけて、全国的に養蚕熱が急速に上昇

明治(2年)1869
(3年)1870
(5年)1872

鯨井勘衛(熊谷市)が元素楼(清涼飼育場)を建設
長井市太郎(熊谷市)が荒川河原に桑園を開拓
政府(大蔵省)が蚕種取締大総代を設ける
本県から、川島楳平(行田市)と鯨井勘衛(熊谷市)を選出
政府が畑方増税、その2割を勧業資金として下付

(6年)1873

県では、桑茶の作付け奨励を上申
狭山市に県内初の器械製糸「暢業社」が起業
官営富岡製糸工場の開設(皇后・皇太后が行啓)

(10年)1877

木村九蔵(児玉町)が温暖育を考案、養蚕改良競進社を組織
三田清三郎(熊谷市)が埼玉製糸社を設立

(14年)1881
(16年)1883
(17年)1884

県では、養蚕組合概則を布達、養蚕業の発達を図る
上野-熊谷間に鉄道開通
熊谷-高崎間に鉄道開通(上野-高崎間開通)

(18年)1885

政府が蚕糸業組合準則を発布(蚕卵検査の開始)
太政官制を廃し、内閣制度確立

(21年)1888

市制・町村制公布

明治中期 1890頃

藍作などの商品作物地帯である児玉郡・大里郡で急速に発展
繭の産額が増大するとともに、生繭販売が増加
このころ、県内には22箇所の繭市場が存在

(23年)1890
(24年)1891

第1回総選挙・大日本帝国憲法施行
シャルドンネ(仏)、人造絹糸の生産開始

(27年)1894
日清戦争前後

入間市に石川製糸が設立
片倉などの信州系資本の各地への進出が活発化

(29年)1896

熊谷測候所が設立される
本庄に800石の処理能力を持つ生繭乾燥場が建設
蚕の一代交雑種利用が提唱される

(33年)1900
(34年)1901
(35年)1902
(38年)1905

熊谷市に山一林組熊谷製糸所開設
官営八幡製鉄所設置
県立熊谷農業学校開校
政府が蚕病予防法を公布

明治末期 1905頃
(39年)1906

器械製糸が座繰製糸を圧倒、座繰の生産高を追い越す
生糸検査所創立
政府が鉄道国有法公布

(40年)1907
(43年)1910

熊谷市に片倉石原製糸所開業
上田蚕糸専門学校の創立

(44年)1911

政府が蚕糸業法を公布
国立原蚕種製造所の創立

大正 (2年)1913

熊谷市に県原蚕種製造所が設置される
熊谷市に松崎製糸所設立

(3年)1914

原蚕種製造所を蚕業試験場に改称
蚕種の一代雑種の配布開始

(5年)1916
(7年)1918
(8年)1919
(11年)1922
(14年)1925

米沢人造絹糸製造所が国内初のビスコース人権を製造
米騒動
生糸輸出額6億2千万円、同年の国家予算10億6千万円
県原蚕種製造所が蚕業試験場と改称
農商務省が農林省、商工省に分離

昭和(2年)1927

金融恐慌始まる
農林省に蚕糸局設置

(3年)1928
(5年)1930
(7年)1932
(9年)1934
(11年)1936
(12年)1937

第1回衆議院普通選挙実施
金解禁、世界恐慌が日本に波及(昭和恐慌)
政府が製糸業法を公布
政府が原蚕種管理法を公布
2・26事件
熊谷市に埼玉県繭検定所落成

(13年)1938

政府が国家総動員法を公布
米国デュポン社、ナイロンを発表

(14年)1939

政府が米穀配給統制法を公布
熊谷測候所国立移管
本県史上最高収繭量23,600トンを記録

(15年)1940

日独伊三国同盟締結、大政翼賛会結成
蚕業試験場製糸試験部で繭検定を実施

(16年)1941

政府が蚕糸業統制法公布
太平洋戦争開戦

(18年)1943

国策会社日本蚕糸製造(株)創立、戦時統制が強まる

(20年)1945

ポツダム宣言受諾、終戦
国策会社日本蚕糸製造(株)解散
生糸輸出額皆無となる

(22年)1947
(25年)1950

全国で蚕業技術指導所を設置
県繭検定所の新庁舎建築される

(26年)1951

生糸価格が高騰し、kg当たり5,000円以上を記録
政府が繭糸価格安定法を公布

(33年)1958

生糸価格が低落し、kg当たり2,408円の最低記録
全国的に桑園整理を実施

(34年)1959

熊谷-東京間電話即時開通

(35年)1960

日米安保条約改定(60年安保))

(36年)1961

政府が農業基本法を公布
熊谷市の万平公園に「蚕霊塔」建設

(38年)1963

生糸が初めて輸入される

(39年)1964

東京オリンピック開催
このころから生糸の国内需要拡大始まる

(41年)1966

日本蚕糸事業団が発足
生糸輸入が輸出を上回る

(43年)1968

本県戦後最高収繭量13,200トンを記録
3億円事件発生

(44年)1969

本県史上最高器械生糸生産量2,200トンを記録
このころより、輸入生糸が増大し、価格を圧迫し始める

(47年)1972

日本蚕糸事業団による生糸の一元輸入開始
このころより、生糸価格が暴騰と暴落を繰り返す

昭和50年代

きもの離れ減少が顕在化し、生糸需要が低迷
桑園面積・養蚕戸数・繭生産量が減少を始める
昭和55年の本県の繭生産量7,200トン

昭和60年代

グンゼなどの大手企業が製糸部門から撤退

平成(5年)1993
(6年)1994
(8年)1996

本県の繭生産量が1,000トンを割り込む
全国の繭生産量が10,000トンを割り込む
本県最後の製糸工場である秩父蚕糸(株)が操業停止

(10年)1998

政府が蚕糸業法と製糸業法を廃止
県蚕業試験場及び繭検定所廃止

(12年)2000

生糸価格4,000円台で低迷
熊谷市に片倉シルク記念館開館

(13年)2001

本県の繭生産量が100トンを割り込む
生糸価格2,000円台で低迷
本県の養蚕戸数250戸、繭生産量80トン

(15年)2003

養蚕文化継承事業が始まる
春蚕の産繭量は26年ぶりに前年を上回る

(16年)2004
(17年)2005
(18年)2006

本県の養蚕農家戸数177戸、繭生産量56トン
器械製糸会社4社が操業停止し、残りは全国で2社となる。
埼玉県蚕糸業史「埼玉県蚕糸業の半世紀-蚕とともにあゆむ」発刊

お問い合わせ

農林部 生産振興課 花き・果樹・特産・水産担当 (果樹・特産担当)

郵便番号330-9301 埼玉県さいたま市浦和区高砂三丁目15番1号 本庁舎5階

ファックス:048-830-4843

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