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掲載日:2025年12月2日

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訪問日
令和7年10月20日(月曜日)
訪問地域
北部地域(寄居町、美里町、上里町)
訪問先
昭和38年から養豚業を開始し、平成3年から現社長が「自分の作った豚肉のおいしさを多くの人に食べてもらいたい」との思いで「手づくりハム工房バルツバイン」をスタートしました。
3代目の工場長は、埼玉県農業大学校の卒業と同時に農業研修のためドイツへ留学。帰国後、自社で勤務しながら神奈川県・厚木ハムの嶋崎氏に師事し、食肉加工の技術・知識、経営、職人としての在り方を学びました。
平成28年、ドイツのフランクフルトで開催された食肉加工コンテストIFFA(イーファ)に13品を出品し、9品が金賞を受賞するなど、出品した全ての加工品が入賞しました。
味はもちろん安全面にもこだわり、輸入肉や他社の国産豚肉などを一切使用せず、自家農場産の武州豚のみを使用しています。保存料や防腐剤なども使用せず添加物は必要最低限とし、安全・安心な加工品を製造しています。
訪問先では、レストランや工場・販売店舗を視察し、代表取締役社長や工場長、農場代表の方々と意見交換を行いました。
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坂本代表取締役社長との記念撮影 |
畜産業は、比較的近郊農業でなくてもできるところがあります。寄居という場所柄、良い面もあるでしょうし、競争する上で厳しい面もあると思いますが、どのようにお考えですか。
埼玉県全体で見て、畜産は大規模化が難しいと考えています。育てた豚を生かして加工や小売りを行うことで、小規模でも生活ができ、利益が上がるような経営を目指しています。
寄居で事業をしていて付加価値を付けるのは、どういうところが一番良いと思われますか。
はじめは、他県の市町村から寄居町にもっと人を呼びたい、そのためには知っていただくことが重要だと考え、名前を売っていく活動から始めました。地域の活性化を意識し始めたところから、付加価値について考えるようになりました。
レストランや直販も行い6次産業化されているのは良いことだと思います。
自分のところだけで部位を余すことなく、上手く使えるのでしょうか。
それを上手くやるために、加工で余る部位をレストランで使います。その逆もあるので、加工とレストランの両方でやっていて、今ちょうど良いです。
ファミリーで経営されていますけれども、お二人にとって事業継承をされたきっかけ、あるいは決め手は何だったのでしょうか。
私は、小さい頃から農場を見て遊んでいて、このバルツバインをやる前まで農場にいました。同じような後継者の仲間たちができてから面白い職業だと感じました。仲間の話を聞き、自分にはなかった考えや、この先の展望などを先輩たちから聞きながら、人のつながりに魅力を感じるようになりました。加工の方に移ってきて、加工は加工ですごい魅力があって奥深くて作っていて楽しい職業だと感じ、生産と加工、両方の現場を見て、すごく魅力的な仕事だなというのが分かってからです。
竜太郎(農場代表)さんは、いかがですか。
私も兄と同じく小さいときから身近に養豚がありました。少し畑違いの仕事に就いて、そちらを辞めて農場に入ったときに、埼玉県養豚協会青年部などの集まりに参加させていただき、同年代の仲間ができて、養豚を通じてすばらしい意識の高め合いの中でやっていくうちに面白いなと思いました。小さいときに手伝っている経験を思い出しながらやっていく中で、奥が深いな、より良い肉を作りたいという気持ちが強くなり、更に面白くなってきました。小さい頃から育った町で、より多くの方が来ていただけるような豚肉やお店を作っていきたい気持ちで後を継ぐ形になりました。
社長、頼もしいですね。
美里会は、昭和48年に設立され、多岐にわたり福祉サービス事業を展開している総合的な社会福祉法人です。
平成12年に訪問介護員養成研修をスタートさせ、これが現在の「みさと福祉カレッジ介護学科」となっています。また、平成27年からは看護師不足を解決するため、看護師資格取得制度を開始しました。
美里会が運営する「障害者支援施設みさとの森」では、農福連携を集約・発展させ、利用者の活躍の場の創造と保障を目指す「ノウフク・フードプロジェクト」を令和4年から始めています。
訪問先では農場やキノコハウスなどを視察し、理事長や職員の方々と意見交換を行いました。
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| 栽培・生産している農産物・加工品の説明を受ける |
私もなるほどと感心させられたのが、訪問介護員養成研修などを行う「みさと福祉カレッジ」です。非常に良いアイデアで、今日お会いした方々は若い方が多く、すごくいいのだろうなと感じました。美里町にとっても、多分来ていただくなり、あるいは居ついていただくということで、すばらしい取組なのだと思いました。他方で、カレッジができる前は相当苦労されたのではと思います。その当時の福祉工場「埼玉職業実習所」等では、人をどのように集めていったのですか。
創業時はまだ法人化されておりませんでしたので、先代の経営者が私財と個人の努力で福祉職員の雇用と養成をやっていました。
看護資格取得制度の話があったのですが、看護師の場合、研修先の医療機関にそのまま就職してしまうなどのパターンもあるかと思います。それについては、どう思っていらっしゃいますか。
看護師の養成は、介護福祉士を取得した職員が必要性を感じて看護師になりたいと希望したのがスタートです。毎年1~2名を養成していまして、医療行為ができる介護福祉士の必要性を感じてくれているので定着はそれなりにしています。また、専門性を高めるという意味では福祉施設だけでなく、提携しているクリニックで研修をさせていただき、医療との接点を深くすることで専門性を高めています。
看護師も介護福祉士もそうですが、資格を取った職員には、何年か義務年限があるのですか。
資格取得後の就労義務年限や退職する場合の学費の返済義務はありません。現在、看護師は圧倒的に不足していますので、頼るところは派遣会社や紹介会社になります。どうせお金を出すのなら職員に投資しようと考えました。資格取得後に退職することもあるかもしれません。実際に8人が資格を取得し2人が退職しました。しかし、退職した方がその後に地域の医療機関や福祉施設で働くことになれば、地域貢献になっていると考えています。
農福連携としての6次産業化は、自分のペースで行い、年間を通じてキャッシュが稼げるので理想的なところがあると思います。一方で6次産業化のマネジメントはすごく難しく、いい面もあれば大変な面もあると思うのですが、どのようにやっておられるのでしょうか。
6次産業化というのは理想の1つなのですが、それだけでは正直なところ農福事業は成立しないのではないかと考えており、私たち法人の中でも広い選択肢を持って取り組んでいます。
私たちの施設では、入所している利用者さんの食事も全部自前で作っていて、組織の中で、ある意味、6次産業みたいな役割分担ができる環境にあります。このようなことからも、法人内でもより良い特化したものを作り、それらを製品化できるようにしながら、外部との接点も持っていきたいと思っています。
農福連携のパターンを見ると、私の見ている限りで4つぐらいの段階があるのかと思います。1つ目は施設利用者の皆さんが農業のお手伝いみたいなことをやるパターン。2つ目は農作業ではなく農業関連の箱を作るなどのパターン。3つ目は農業で完結する製品を作るパターン。4つ目が6次産業化によってそこに付加価値を付けて売るところまで。この中で何を大事にしていますか。
やはり利用者さんが作った農産物や加工製品というのは、利用者さんの顔そのものですので、特別なものであるという考えは揺るがないようにしたいと思っています。利用者さんが携わった製品であるということを大切にして、私たちがその価値を落とさない努力をしていくことを大事にしています。
上里町立郷土資料館では「西﨑キクと埼玉県の女性偉人たち展」を開催中で、西﨑キクを中心に本県出身の女性偉人たちを資料や写真、パネルなどで紹介しています。また、同じ期間に戦後80年特別企画として「アメリカ軍の記録が語る児玉飛行場への空襲」も行っています。(いずれも現在は展示を終了しています。)
日本人女性初の海外飛行を行い、女性活躍の先駆者である西﨑キクの功績を後世に伝えるため、平成22年に発足した上里町男女共同参画アドバイザーの会が「西﨑キク大型紙芝居」を平成25年に制作し、同会の紙芝居部が「西﨑キクかるた」を令和6年8月に発行しました。
訪問先では西﨑キクの展示などの視察のほか、上里町長と「西﨑キクかるた」を行い、上里町男女共同参画アドバイザーの会の方々などと意見交換を行いました。
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上里町長と西﨑キクかるたを行う |
西﨑キクの生涯を題材にしたかるたや紙芝居もおやりになっていると伺っています。上里の若い人たちやこどもたちに、西崎キクの何を伝えたいですか。
西﨑キクさんの偉業だけではなくて、座右の銘に「ただ一度の人生だから」というのがあります。自分がやろうとすることに努力し頑張るということを、今の社会とタイアップさせて、こどもや若者に是非、後々まで、このキクさんの気持ちをつないでいってもらいたいという気持ちがございます。
なるほど。こどもたちの反応はどうですか。
町民ホールで西﨑キクの大型紙芝居を上演したときは、こどもたちは、帰りに皆「パイロットになる」と言いながら帰っていきました。
そうですか。それはすごいですね。
今年1月に、町民ホールでこの西﨑キクの企画展をやりまして、そのときにもこどもたちが来て、紙芝居を上里町男女共同参画アドバイザーの会の皆さんにやってもらいました。小学生にも大変な反響でした。
こうやって改めていろいろ教えていただくと、ものすごく、活発で魅力のある女性だったのですね。実際にお会いになっていかがでしたか。当時としては、非常に新しい発想をお持ちの方ですよね。だから新しいものを取り入れることをやっていたのですね。女性の目から見て、西﨑キクさんはどのような人でしたか。
私は、キクさんが飛行機の操縦士をお辞めになり、後に町の社会教育指導員という立場になられたときにお会いしましたが、やはりキクさんの根幹にあるのは女性差別に対する反発。私はどうしてもそれが最初からあったのではと感じています。
「ただ一度の人生だから」というのは、素敵ですよね。
上里の女性は、皆がこうなのかなと思って。不時着した瞬間にワイン飲み始めたって、すごいですよね。
男女共同参画推進センターが上里町にありますが、県内の町村では上里町が最初です。そういった意味で西﨑キクさんとつながり、こういう形になってきたのかと思います。
我々としても、男女共同参画は大切だと思っているのですが、現実の問題としては、まだまだ、たくさんの見えない壁があります。それをどう乗り越えるかということに関しては、「ジェンダー主流化」という考えを去年から県のすべての施策に取り入れています。ただ、やはりこういった先人がいなければ、ロールモデルとして自分たちがどういうふうにやっていいのか分かりません。多分、後進の方々から見れば、皆さんもまぶしいロールモデルですから、そういう人たちが数多くいた方がいいわけです。
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