トップページ > 県政情報・統計 > 県概要 > 組織案内 > 企画財政部の地域機関 > 秩父地域振興センター > 秩父地域の観光情報トピックス > KOCO “ココ” ちちぶNo.9 井上素子さん
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掲載日:2023年9月5日
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【長瀞町にある「埼玉県立自然の博物館(※1)」の事務室でお話を伺いました。】
都心から約2時間、美しい自然に囲まれ年間300万人もの観光客が訪れる、関東屈指の観光地・長瀞(ながとろ)。
「地球の窓」と称される岩畳(いわだたみ)(※2)で知られ、「日本地質学発祥の地(※3)」とよばれる長瀞にある「埼玉県立自然の博物館」で、10年以上秩父を研究されている井上さんから、日頃のお仕事や秩父地域の“ぜひココ”な観光スポットについてお話を伺いました。
※1 埼玉県立自然の博物館ホームページ
※2 岩畳と秩父赤壁(ジオパーク秩父ホームページ)
※3 日本地質学発祥の地(ジオパーク秩父ホームページ)
〇 井上さんの日頃の仕事について教えてください。
「博物館の学芸員をしています。博物館では埼玉の自然、例えば化石や動物などの標本や情報を集めて、未来に残すために記録したり、保存したりしています。集めた資料等の大切さを伝え、身近に感じてもらえるように展示や普及活動も行っていますが、ベースは「未来に残す」仕事です。」
【埼玉県立自然の博物館。1981年県内唯一の自然系総合博物館として開館した。】
「自然系博物館の学芸員としては珍しいのですが、私は文学部出身なんです。もともと歴史が好きで史学科を選びましたが、そこで「自然地理学」に出会いました。自然地理学は、人間を取り巻く自然現象を解明する学問です。「こういう自然条件だから、ここに人の暮らしが始まって、今がある。」とか、「ここに活断層があるから、歴史的にこういう被害が生じた。」ということがわかってくると、自然と私たちの暮らしは一体で、自然の営みの中に人間の暮らしがあることを実感します。このことを博物館活動を通じて、多くの方に知ってもらいたいと思っています。」と井上さん。
【井上さん担当の企画展。「地図と模型で見る埼玉の大地」“地球の営みの一呼吸”で災害が発生している。8/31まで期間延長。】
この企画展では、「自然災害が起きる背景にある自然現象や、埼玉県で今までに起きた地震や水害などの原因について知ってもらいたい。」という。
井上さんは、2017年放送のNHK「ブラタモリ」(※4)で、秩父と長瀞の案内人を務めた。番組は常に暮らしと人と自然の関係を扱っていて、「すごく自然地理学的だな」と感じているという。
今、災害への関心が高くなっている。暮らしと人と自然の関係を研究する井上さんが担当した企画展をじっくり見て、災害について他人ごとではなく、自分の事として考えてみたい。
※4 ブラタモリ#79秩父・#80長瀞(NHKホームページ)
〇 井上さんのおススメの“ぜひココ”な観光スポットを教えてください。
「マニアックになってしまいますが、大丈夫でしょうか(笑)。長瀞の岩石や自然や歴史を感じる場所をいくつかご案内したいと思います。」
今回は、井上さんと一緒に長瀞(一部皆野に至る)の現地を歩き、(「ブラタモリ」ならぬ「ブラモトコ」で)その場でお話を伺いました。
明治44(1911)年、上武鉄道は熊谷から長瀞を経て皆野町金崎(かなさき)まで延び、金崎にあった終点駅は「秩父驛」と呼ばれていた。
金崎から先に軟弱な蛇紋岩地帯があったため、鉄道の延伸計画は、現在の長瀞駅から先のルートが変更された。
その際、荒川に橋(荒川橋梁(あらかわきょうりょう)(※5))が架けられ荒川右岸へ渡り、秩父市へ向かうルートになった。
ルートから外れた秩父驛は国神驛、荒川驛と名前を変え、大正15(1926)年に廃止された。
【今も現役。大正3(1914)年建設の荒川橋梁。用いたレンガは深谷に工場があった日本煉瓦製造のものと考えられる。】
※5 秩父鉄道荒川橋梁(ジオパーク秩父ホームページ)
「長瀞駅から自然の博物館の前の道を通り、荒川橋梁の脇を通り、更に、金崎交差点(廃止された線路跡はここまで)を超えて、「金崎神社」、「長興寺」を右手に道を歩いていくと「秩父驛」があった辺りになります。でも「秩父驛」の跡は何も残っていないんです。」と井上さん。
付近の道沿いに「旅館梅乃屋」と書かれたプレート付の街灯が残っていた。大正5(1916)年に地質見学旅行で秩父を訪れた宮沢賢治一行も泊まったという「梅乃屋旅館」。かつて駅前旅館のあった場所から、駅の位置を想像してみた。
【蛇紋岩露頭を案内する看板。】
【荒川沿いに整備された通学路へと降りる階段。】
【河原のいたるところで蛇紋岩が露出している。】
更に歩みを進めて二手に分かれる道を左手に下り、「ほのぼの散歩」の案内板に従って進んでいく。突き当りの階段を、荒川沿いに整備された通学路に向かって降りていくと、そこから「蛇紋岩露頭」(蛇紋岩が地表に現れている所)を見ることができた。
「この辺り(金崎)では、明治時代から近年まで「蛇紋岩」が採掘されていました。秩父産の蛇紋岩石材は品質が良いので、国会議事堂の中央玄関の床にも使われています。鳩糞石(「蛇紋岩」の別名)が好きだったタ〇リさんを連れてきたかったです。」と井上さん。
【蛇紋岩は濃い緑色で光沢があり蛇の皮膚のように見える。拾った蛇紋岩を手に説明する井上さん「マニアの方に来てほしいですね」。】
岩畳の対岸の秩父赤壁(ちちぶせきへき)(※2)といわれる切り立った崖の上に、明治時代に開削された旧道が通っている。(現在、遊歩道「長瀞自然のみち」になっている。)
この場所は、井戸破崩(はぐれ:崩れやすく危険な場所)(※6)といわれる通行の難所で、江戸時代には更に山道を登っていて、人や馬がよく落ちたため明治時代に2年をかけて開削された。沿道住民がお金を出し合って作った悲願の道だという。
※6 井戸破崩(はぐれ)と明治の旧道(ジオパーク秩父ホームページ)
【「長瀞自然のみち」。明治時代に開削され、今は遊歩道になっている。】
【江戸時代の旧道の登り口を示す井上さん。新道開削前はこちらを通っていた。】
【おススメの断崖前で、新道掘削当時の発破の跡を示す。】
「ここが一番おススメの断崖です。岩肌には新道開削当時の発破の跡が残っています。断崖の前は展望が開けていて、岩畳を見下ろせて迫力があります。春には桜と岩畳が絶景です。」という井上さん。
【遊歩道「長瀞自然のみち」から見下ろす岩畳。※数m先は断崖絶壁であるため要注意】
「長瀞は渓谷だから、荒川を挟んで西側と東側で交流が難しかったんです。川の向こう側の小学校に行くのに、どうしても荒川を渡らなければいけないので、順番で舟を出してあげていました。昭和56年に(金石)水管橋ができるまで「渡し舟」があったんです。」と、ブラタモリの“ネタだしノート”を見せてくれた井上さん。
【水管橋から渡し舟の往来があった辺りを眺めて。岸には渡船場への道が残っている他、「金石の渡しの記念碑」が右岸側にある。】
【新緑の頃には水管橋からの眺めも美しい。】
「この野上下郷石塔婆(※7)は日本一の大きさで、国指定史跡になっています。長瀞で採れた「秩父青石(あおいし)」とよばれる石材を使っているのですが、板状に大きく採れる場所は決まっていて、長瀞には2か所跡があります。板状になるので石皿や敷石、板碑(いたび)などに使われています。」と井上さん。
井上さんのお話を聞きながら、大きな石の背景にある歴史や、この地域の人々の古の営みに思いを巡らせました。
【高さ5m、厚さ13cmで、現存する中で日本一の大きさの石塔婆。南北朝時代(1369年)の建立と伝わる。】
※7 野上下郷石塔婆(ジオパーク秩父ホームページ)
長瀞第二小学校裏の山ぎわに「水」の文字が刻まれた岩がある。江戸時代の寛保2(1742)年に4日間豪雨が続き、荒川の水位が18m上昇し、付近が水没したことを記録するため、地元住民が洪水位を刻んだもの。
【寛保洪水位磨崖標(埼玉県指定史跡)(※8)。「水」の字が刻まれた岩がある。】
※8 寛保洪水位磨崖標(ジオパーク秩父ホームページ)
【江戸時代に刻まれ、水位がここまで来たことを示す「水」の文字を指さす。】
「後世の人々のために「ここまで来るんだよ!」と知らせている。こういうのを大事にしないと、という気持ちです。グッときちゃうんです。」と井上さん。
今回は、井上さんのおススメスポットをご案内いただき、専門知識に裏付けられたエピソード等を現地で伺いました。
まだ他にも紹介しきれない(できない?)裏話的な話や、紹介しきれない場所がたくさんあり、色々とガイドいただきながら歩くことの楽しさをあらためて実感しました。
井上さんと一緒に訪ねた場所も掲載されている、観光ガイドマップ(見どころマップ)2019-20(長瀞町観光協会ホームページ)を片手に、長瀞の大地と古の人々の営みを感じながら歩いてみてはいかがでしょう。(下調べには、ぜひ、ジオパーク秩父ホームページもご活用ください。)
きっと、歴史の証人たちが静かに時を刻みながら、あなたを迎えてくれることでしょう。
[取材日:2020年2月25日、記事公開日:2020年6月19日] ※掲載している情報は取材日現在のものです。
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