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掲載日:2024年3月15日
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栄一の生誕地です。現存する主屋は妹夫妻により明治28年上棟されました。晩年の栄一は血洗島村の鎮守である諏訪神社の例祭にあわせて帰郷するなど、たびたび「中の家」に滞在しました。
令和5年8月にリニューアルオープンしました。
【栄一との関係】
農業を代々営み、栄一の父親の代には染料のもととなる藍玉の製造・販売を本格的に手掛け、村で1、2を競う富農となりました。
栄一の父の市郎右衛門と母のえい、そして見立て養子となった平九郎の碑です。東京谷中の渋沢家墓所内にありましたが、平成26年に生誕地である「中の家」の敷地内へ移設されました。
【栄一との関係】
父の市郎右衛門は学問に長け、持ち前の勤勉律儀さで養蚕や藍玉づくりとその販売により財を成し、「中の家」を再興しました。
母のえいは大変慈悲深い人で、近所の病弱な人の着物や食事の世話までしたといった逸話が多く残されています。
平九郎は栄一と従兄弟の関係にあたり、栄一の学問の師でもある尾高惇忠の弟(妻ちよの弟)です。栄一が渡欧するにあたり見立て養子となりました。
栄一の雅号である「青淵」の由来となった淵の跡に建てられた碑。青淵公園内にあります。
【栄一との関係】
栄一の雅号「青淵」は、従兄で学問の師でもある尾高惇忠(雅号は「藍香(らんこう)」)がつけました。
当時の栄一の家の北には淵があり、自分の家を淵上小屋と名付けていたこともあって「青淵」という雅号になったと後に語っています。
栄一の喜寿を祝い氏子中によって建てられました。
【栄一との関係】
栄一とつながりの深い諏訪神社内に建っています。
栄一の生誕地周辺を整備した公園です。園内歩道脇などに栄一の言葉を記した看板が設置されています。
【栄一との関係】
栄一の雅号である「青淵」からとって、青淵公園と名づけられました。
栄一が生まれた旧血洗島村の鎮守です。
【栄一との関係】
拝殿は栄一が寄進しました。
秋の例大祭では、毎年「血洗島獅子舞(深谷市無形民俗文化財)」が奉納されます。
栄一もここで血洗島獅子舞を踊り、当地を離れてからも毎年のように血洗島諏訪神社の祭礼にあわせて帰郷し、参観していました。
栄一の祥月命日である平成7年11月11日に開館しました。資料室には栄一ゆかりの遺墨や写真などが展示され、多目的室では栄一に関する映像を見ることができます。
また、講義室には生誕180年にあたる2020年に誕生した”渋沢栄一アンドロイド”があり、大正時代に栄一が語った『道徳経済合一説』についての講義を受けることができます。
栄一の従兄で学問の師でもある尾高惇忠、栄一の妻となる尾高千代の生家です。江戸時代後期に惇忠の曽祖父が建てたといわれています。
【栄一との関係】
幼少期の栄一は尾高惇忠に論語をはじめ四書五経を習うためこの地に通いました。のちに栄一や惇忠、渋沢喜作らが高崎城乗っ取り・横浜商館焼き討ちの謀議をしたのもこの建物の2階と伝わっています。
栄一の従兄で学問の師でもある尾高惇忠(雅号は「藍香(らんこう)」)を顕彰する碑です。
【栄一との関係】
栄一らにより建立されました。
惇忠は後世、「藍香ありてこそ栄一あり」と称えられた人物で、栄一の人生に大きな影響を与えました。
栄一の従兄で学問の師でもある尾高惇忠が生まれた下手計村の鎮守です。
【栄一との関係】
尾高惇忠の功績を称え、栄一らによって建立された藍香尾高翁頌徳碑が佇んでいます。
元治元年(1864)、幕府と対立する存在であった尊皇攘夷派の天狗党の水戸浪士2名が岡部藩士に討伐されてしまいました。その後、無縁仏となっているのを不憫に思った血洗島の人たちが浪士達をこの地に丁重に埋葬しました。
時代の流れを経て、大正になってから浪士の弔魂のためにこの碑が建立されました。
【栄一との関係】
栄一が撰文し、揮毫(きごう)した碑です。
中国の詩人・陶淵明の詩を渋沢栄一が揮毫(きごう)した碑です。碑文は「園日渉以成趣(園は日々に渉りて以って趣を成なす)」。現在は、深谷公民館の敷地内に移されています。
【栄一との関係】
栄一が揮毫(きごう)しました。
桃井可堂は、封建時代の厳しい身分制度の中、百姓の出でありながら苦学の末に一流の学者となりました。栄一らと同時期に倒幕挙兵を企てましたが、事前に漏洩し、可堂は自首して獄中に死去してしまいます。
碑は故郷である深谷市北阿賀野の稲荷神社境内に建てられました。
【栄一との関係】
碑の撰文は栄一が行いました。
可堂の孫である健吾は石井姓を継ぎ、栄一が初代頭取を勤めた第一銀行に入行し、三代目の頭取となりました。
栄一の喜寿のお祝いとして、初代頭取を務めた第一銀行行員たちの出資で建築されました。平成11年に世田谷区から現在の場所に移設されました。国指定重要文化財です。
【栄一との関係】
「誠之堂」の名前は、儒教の経典の一つ「中庸」の一節「誠者天之道也、誠之者人之道也(誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり)」にちなんで栄一自身が命名しました。
誠之堂の外壁、基礎の各所から「上敷免製」の刻印のある煉瓦が発見されていて、栄一が設立に携わった日本煉瓦製造株式会社のものであることが分かっています。
栄一を継いで第一銀行の2代目頭取を務めた佐々木勇之助の古希のお祝いとして、誠之堂同様に第一銀行の行員たちの出資で建築されました。埼玉県指定有形文化財です。
【栄一との関係】
佐々木勇之助は、28歳の若さで第一国立銀行本店支配人を務めるなど、数々の役員を歴任し、大正5年に栄一を継いで第一銀行の2代目頭取に就任しました。その手腕と人格で栄一の精力的な活躍を補佐したといわれています。
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