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豊田亜紀

掲載日:2022年8月12日

豊田亜紀

プロフィール

医療法人社団双里会多機能型事業所わっくす 職業指導員

表現活動を通じた施設利用者へのアプローチと、その意義を模索している。「埼玉県障害者アートネットワークTAMAP±0(タマッププラマイゼロ)」東部地域支部長。
2015年より、埼玉県障害者アートフェスティバル実行委員会委員。

「身近で感じる生きた表現力」

私たちの施設は、2013年から「埼玉県障害者アートネットワークTAMAP±0」に参加するようになりました。障害当事者にとっての表現活動の意義を、施設の職員や行政、他職種のエキスパート等を交えながら模索しています。そんな通称「TAMAP±0」の取り組みの中に、埼玉県から福祉施設に毎年協力依頼がくる「障害のある方の表現活動状況調査」というものがあります。この調査に回答することがすなわち「埼玉県障害者アート企画展」へのエントリーとなり、障害当事者の「作品」が展示のチャンスにつながるという仕組みです。まさに、官民一体の取り組みであることを特徴づける、埼玉県独自のシステムであろうかと思います。

交流室
多機能型事業所わっくす交流室

斎藤進さんの過ごし方

「斎藤センセイ」の姿は、私が入職した当初から交流室にありました。交流室とは、障害当事者であるメンバーたちにとっての日中の居場所です。外出先、活動場所、休憩所、または避難所といった機能を持っています。集団の中でお互いに配慮し、図り合いながらバランスを保っている場所と言えます。その交流室で斎藤さんは、主に「描く」という過ごし方をしていました。本職の画家のごとく、毎日描き続けているものですから、周囲からはいつしか「画伯」や「センセイ」などと呼ばれるようになっていました。昭和20年代生まれの斎藤センセイが主に描くのは、女性たちの姿でした。その理由は「男を描いたってしょうがない」からなのだそうです。

斉藤さん写真
斎藤センセイ


「外」へ向けての発表のきっかけに

とはいえ、私は斎藤さんが女性像を描くのには、彼なりの「狙い」もあるように感じていました。彼は画集などを参考にしながら、中世ヨーロッパを思わせるような豪奢な出で立ちの女性をよく描いていました。それが女性メンバーの目を惹くとみえて、よく話しかけられていました。斎藤さんにとって、絵を描くことは「単なる暇つぶし」なのだそうです。でも、「見てもらわないと意味がない」とも言っていました。描くという行為はひとり黙々となされているのですが、「僕の絵をみてどう感じるか感想が聞きたい」と言うのです。「描くという過ごし方」が持つ本来の意味に、気づかされる言葉でした。斎藤さんの絵をのぞき込まずにはいられないギャラリーの存在を見ていると、黙って描いていても「作品」が存在感を放ち、「作品」が多弁に語りかけるということがあるのだなと思いました。描くという行為は、コミュニケーションの手段となっていたのです。こうした斎藤さんとのやり取りを経て、初めて毎年埼玉県が実施している「表現活動状況調査」と、その先にある展示発表の可能性を意識するようになりました。斎藤さんの作品が「埼玉県障害者アート企画展」にフィットするものであるのか、また、表現活動についての専門的知識を持ち合わせていない自分が関わることができるのかどうか、当初は戸惑いを覚えつつ調査票を提出しました。選出の結果を受け取った時は、私たちの小さな世界が一気に外の世界に拓けていくような気がしました。

斉藤進さん作品斎藤進さんの作品


「在り方」としての表現活動

交流室などで過ごすための手段の1つとして継続的に行なわれているような「表現活動」は、他にも存在しています。支援者が促したというわけでもなく、あくまで本人の編み出した取り組み内容であり、本人のたゆまぬ努力によってその手法を周囲に認知してもらうに至った、いわば自発的活動です。例えば、私たちの交流室には、毎日「壁新聞」を発行している「田村秀樹さん」がいます。紙面にメンバーや支援スタッフを登場させながら、「解る人にしか解からない」身近な話題を提供しています。ジョーク満載で手書きし、コラージュの手法も取り入れた田村さんの「作品」から直接伝わる内容は、限定的なものかもしれません。多くの人たちに向けて発表する作品展などにおいては、発表の対象から外れてしまいがちでしょう。一般的な創作物の評価で重要視されるのは、やはり作品自体が持つ力や、芸術性といったものなのではないかと思います。しかしながら、すぐそばで田村さんの表現活動を見守っている私たちは、この自発的活動の背景にあるものに日々、触れているわけです。その背景の部分に大きな意味を感じるからこそ、作品にも魅了されるのだと思います。

田村さん
田村秀樹さん

田村さん作品
壁新聞

田村さん作品2
壁新聞

作品の背景に存在するもの・こと

いわゆる「障害者アート」の魅力の1つには、やはり作品の背景にある「物語」の多様性が挙げられるのではないでしょうか。作品そのものが放つ圧倒的な存在感によって、観る人たちが自ずと作者に思いを馳せ、状況に対して興味を掻き立てられるような素晴らしい作品も、これまで幾つも目にしてきました。一方で、身近に接している者にとって価値のある創作物であっても、客観性を考慮した場合に、表舞台から遠ざけてしまうに至った作品群も存在するはずです。私自身、ある程度シビアな判断基準も必要ではないかと感じています。展示を意識した「客観的な評価レベル」を、念頭におくことも心掛けています。ですが、忘れてはならないと感じていることがあります。作品自体は評価の対象から外されようが「存在する」ということ。そして、それを生み出す行為としての「表現活動」は、そもそも評価の対象にはなり得ないだろうということです。

生きるための術に接して

施設を利用しているメンバーは、病気や障害による生きづらさを抱え、支援を求めて集まってきた方たちです。パワーレスな状態となり、へとへとになって辿り着いた先で、少しずつ本来の力を取り戻していくのです。その過程において、それぞれの在り方は様々です。ひとり静かに過ごす人。友人を作り、語らう人。作業に専念し、再就職を目指す人。相談をする人。何かを作り出し、披露する人…。斎藤さんは「人生はディ〇ニーランド。夢の世界に天使がいたとしても、不思議じゃないでしょう」と言いました。斎藤さんが実際に経験してきたであろう「苦労」などは、窺い知れないような言葉です。まるで彼の作品の世界観が、現実を凌駕してしまったのではないかとすら思ってしまいます。自主性が尊重され、且つ許容される場所においては、表現活動も「人生を過ごすための術」となっているのではないでしょうか。そんな「生きるための行為」が、眩しく輝いて見えるのは、身近で彼らを見守っている私たち支援者にとっては、当然のことなのかもしれません。この先、障害者アートの新たな展開を見つめるうえでは、かけがえのない作品の魅力をより多くの方に伝えられるような工夫の余地が、まだあるような気がしています。