トップページ > 第14回 打倒浦和を目指した県北勢 ~児玉高校の逆襲~
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2017年1月13日(金曜日)
高校サッカー界に栄華を誇っていた浦和勢。
全国で結果を出し続けたこともあり、サッカーを目指そうとするジュニア層も厚く、次々に才能あるプレイヤー達が輩出されていきます。
私が思うには、同じ浦和、近い場所に強力なライバルが列挙していたことが、好循環に働いた部分もあるかと。
そんな最強の浦和勢に対し、虎視眈々と地力を養っていた存在があります。
それは、大宮でもなく川越などでもない、県北の地にある児玉高校です。
児玉高校にサッカーが根付いたきっかけは、埼玉師範出身の教員が、その地へ赴任していき、サッカーを持ち込んだことに端を発します。
以来、浦和勢の全国での活躍を見ながら、根気強く実力を養っていたのです。
その児玉高校の宿願が叶ったのは、昭和47年(1972年)のことでした。
この年に開催された第15回関東高校選手権大会に、埼玉第2代表として出場を果たした児玉高校。
決勝の相手は、何と埼玉第1代表の浦和南高校でした。
多くの人々が、浦和南高校の勝利を予想していたとは思いますが、結果は、3-0で児玉高校が勝利し優勝を飾っています。
決勝で倒した相手が浦和南高校ということで、地元児玉も大いに盛り上がります。
以来、児玉高校は、度々関東高校選手権大会への出場権をつかむようになり、昭和48年度高校総体においては、初優勝を飾っています。
全国レベルの高校が居並ぶ浦和勢としては、新たなライバルが登場したという思いを抱いたことでしょう。
高校サッカーといえば埼玉、埼玉といえば浦和。
この流れに待ったをかけた児玉高校の奮闘は、埼玉サッカーの裾野をひろげたという意味で、全県にとっても大きな貢献になったと思います。
埼玉の高校サッカーは、浦和勢対児玉!という構図での更に激しい戦いが生まれることになるのですが、一方、数年後に吹く新しい風、その息吹が芽生えつつありました。
埼玉高校サッカーのニュー・ウェーブとも呼べる新機軸の誕生まで、あと数年。
そのことについては、稿を改めて、近日中に書かせていただければと思います。
~レジェンドの言葉~
ビル・シャンクリー
「フットボールは子どもを青年にし、青年を大人にし、大人を紳士にする。さらに言えば、大人を子どもに戻す力さえあるんだ」
(依田:意訳)
第15回 求められるものが多くなってきたゴールキーパーの役割
依田 透(埼玉県在住)
フットボール・コラムニスト
元リバプールFC(イングランド) オフィシャル・コラムニスト
イングランド・プレミアリーグを中心とするヨーロッパのフットボールに造詣が深く、日々、精力的にコラムの執筆活動を続けている。
特に、著者のブログ『Liverpoolの1ファンが綴るblog』は、日本全国に多くの読者・ファンがおり、熱烈な支持を受けている。
イングランド・プレミアリーグファンからは、『カリスマ・ブロガー』とも呼ばれる存在である。