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掲載日:2020年10月23日

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川の伝説

  ①綾瀬川にまつわる伝説

  ②古隅田川にまつわる伝説

  ③春日部市が伊勢物語の舞台だったのかもしれません?(在原業平) 

  ④元荒川にまつわる伝説

  綾瀬川にまつわる伝説「蛇橋」

大曽根村(今の八潮市大字大曽根)は、綾瀬川をさかいにして江戸の北にありました。綾瀬川の江戸のほうの土手は、将軍さまの御殿を守るため、とくにしっかり作ってあり、大雨のたびに大曽根の土手がきれ、毎年のように大曽根は大水にあいました。

ある年の大雨で綾瀬川が増水したとき大曽根村の名手の新八は村を救うため、シシのかっこうをして向こう岸へわたり、クワで土手を壊しはじめました。ところがもう少しというところで見回りの役人に見つかってしまい、新八は綾瀬川に投げ込まれてしまいました。新八の母は気が狂い、「親子ともどもヘビになって役人に恨みをはらすのだ。」と叫んで綾瀬川に身を投じたのでした。

ある日、大瀬安左衛門という役人が綾瀬川のこのあたりを船でさしかかったところ、突然2匹の大蛇が現れ、船がひっくりかえされてしまいました。助かったこの役人は、村の人から新八親子をあわれに思い供養するよう命じました。供養をすると大蛇は姿を見せなくなったということです。

そして、ここに橋がかけられ、村の人はこの橋を「蛇橋」と呼んだようです。

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  古隅田川にまつわる伝説「梅若塚」

武蔵国太田庄と下総国新方庄を隔てていた古隅田川には、梅若塚などの伝説が残されています。

豊春村(現春日部市)役場蔵本『梅若塚略記』によりますと、梅若は京都の公卿北白川の吉田惟房の子で、安和2年(969)7歳のときに学問修業のため比叡山月林寺に入寺しています。ところが天延2年(974)12歳のとき、信夫藤太という奥州の商人に誘拐され、武蔵国と下総国の境を流れる隅田川のほとりまで連れ去られてきました。
しかし、梅若は長途の旅で疲れ果て、そのうえ病にかかって歩行できなくなったのです。そこで藤太は足手まといになった梅若を隅田川に投げ捨てて立ち去ってしまったのです。
水に流された梅若は溺れるところでしたが、衣の袖が岸辺の柳にかかり、その枝につかまって岸にはいあがることができました。この柳の木を人呼んで「守掛の柳」と称されるようになったのでした。
こうして岸辺にはいあがった梅若は、極度の衰弱でその場に倒れていましたが、里人によって助けられ手厚い看病を受けました。しかし梅若はその看護の効なく、
尋ね来て 問いゝ答えよ都鳥
隅田河原の 露ときえぬと
との辞世を残し、その身分を明かして没したのでした。哀れに思った里人は梅若をねんごろに葬ったのですが、この塚を梅若塚と称して、その供養を欠かさなかったと伝わっています。

翌年、梅若を尋ねてはるばる東路に下ってきた母の花御前は、ここで梅若の一周忌を供養していた里人にあってわが子の死を知ったのでした。花御前はこれを悲しみ薙髪して妙亀尼と称し、小堂を営んで梅若の菩提を弔いました。

ある日妙亀尼は、近くの池のほとりで亡梅若を偲び、
くみしりて あわれとおもへ都鳥
子に捨てられし はゝの心を
と詠みあげたところ、

池の表に怱然と梅若の姿が現れたので、妙亀尼は思わず梅若の姿を追って池に身を投じてしまったそうです。
里人は妙亀尼が身を投じたこの池を「妙亀池」とも「鏡の池」とも呼んで後世にこれを伝えたとのことです。

(本間清利著「利根川」より)

梅若塚の碑 春日部市満蔵寺

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   春日部市が伊勢物語の舞台だったのかもしれません?(在原業平)

 春日部市にも「業平橋」があります。

 春日部市内の「業平橋」は、豊春小学校側、主要地方道さいたま春日部線の橋として旧古隅田川(ややこしいですが明治以前の古隅田川だった河道で現在は春日部市長が準用河川に指定しています)に架かっています。

 明治14年に陸軍が作成した迅速図には別な位置に橋がありまして、この橋の位置は現在地の業平橋とは一致しないようです。したがって明治以前から「業平橋」が存在していたことを証明するのは難しいですが伊勢物語との関連を想起させます。(迅速図については → 古隅田川

 次は、「伊勢物語」『東下り』  の一節です。

 なほゆきゆきて 武蔵の国と下つ総の国とのなかにいと大きなる河あり

 それをすみだ河といふ

 その河のほとりにむれゐて 思ひやれば かぎりなく遠くも来にけるかな とわびあへるに

 守「はや船に乗れ、日も暮れぬ」といふに 乗りて渡らむとするに 

 みな人ものわびしくて 京に思ふ人なきにしもあらず

 さるをりしも 白き鳥の はしとあしと赤き 鴫の大きさなる 水の上に遊びつつ魚を食ふ

 京には見えぬ鳥なれば みな人見しらず 

 渡守に問ひければ「これなむ都鳥」といふを聞きて

 名にしおはばいざ言問はむみやこどりわが思ふ人はありやなしやと

 とよめりければ 船こぞりて泣きにけり

 (現代語訳)

 なお進んでいき、武蔵の国と下総の国との境にたいそう大きな河がある。

 それを すみだ河 という。

 その河のほとりに集まって座って、京の方を思いやれば、限りなく遠くへ来たものだなあとわびしい思いに暮れていた。

 渡守が「はやく船に乗れ。日が暮れてしまう」というので、船に乗って川を渡ろうとしたところ

 誰も彼もなんとなく侘しい気持ちになり、京に愛しい人がいないわけではない。

 そんな時、白い鳥の、くちばしと足が赤く、鴫くらいの大きさの鳥が水の上に遊びつつ魚を食っていた。

 京には見えない鳥なので、誰れもその鳥の名を知らない。

 渡守に聞いたところ「これこそ都鳥」と言うのを聞いて、

 その名も都鳥という名を持つお前に、いざきいてみよう。私の愛しい人はすこやかでいるか、どうかと。

 と詠んだところ、船の上にいる人々はこぞって泣いたのだった。 

  現在、古隅田川は大落利根川に注いでいます。しかし、かつての流れは逆で大落古利根川から元荒川へ注いでいたといわれています。現在でこそ狭小な河道になっていますが、周辺には古隅田川の旧堤が散在しているなど、古隅田川がかなり大きな河川だったことが窺い知れます。

  伊勢物語で描かれた舞台が春日部市だったのかもしれません。

  元荒川にまつわる岩槻城落城の伝説

豊臣秀吉は天下統一を成し遂げるため関東に攻め込んでいました。

天正18(1590)年5月、徳川家康の部下の一隊が兵数約一万三千をもって敵対していた北条方の岩槻城を攻め寄せていました。しかし、その時、岩槻城主太田氏房は、豊臣軍による小田原城攻撃に備えるため兵を大勢率いて小田原に赴き留守で家老の伊達房実が城を守っていました。

岩槻城攻撃の大将本多忠勝は花積台(春日部市)に櫓を組み城内を偵察していたところ、鎧兜に実をかため来攻を待ち構えている多数の武士の姿が見えました。ところが、たまたま飛んできた一羽の烏が一人の鎧武者に止まりました。これを見て鎧武者は本物の城兵ではなく防備が手薄のため藁人形を仕立てたものなのだと見破りました。

攻撃側は直ちに城を攻め落とそうと辻村(大字南辻)の鎮守八幡神社境内で甲冑を付けて岩槻城討ち入りの用意をしました。
しかし、攻撃の準備は整ったものの、目の前には水かさを増した元荒川(当時は「荒川」)がものすごい勢いで流れていて渡れそうにありません。

どうしたらよいものかと思案にくれていたところ、白髪、白装束の老人が白馬にまたがり、荒波をけたてて対岸の久伊豆神社の森に消えていったのです。これを見た豊臣軍では「浅瀬があるぞ。あそこで川を渡るのだ」と直ちに命令が下されました。

こうして浅瀬を通って攻め入った大勢の豊臣軍の前に岩槻城は攻め落とされてしまいました。

老人が渡った所は、万一に備え岩槻城の兵が避難する道として川底に石を敷き詰めて造っておいたものでした。

実は浅瀬を渡った白髪の老人は辻の八幡大菩薩で、豊臣軍の来週を岩槻城に知らせるため元荒川を渡ったものでした。しかし、そのことが逆に仇となり、敵を導き入れることになってしまったということです。

伝説となっている「鎧の宮八幡神社」は、現在元荒川の右岸側「埼玉県さいたま市岩槻区大字南辻68」に比定されますが、当時は河道が蛇行しており神社の位置は左岸側にありました。

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 明治13年 陸軍作成「迅速図」から引用(御成街道と元荒川が交差する付近)

 現在とはかなり地形が異なっていることが分かります。

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県土整備部 総合治水事務所  

郵便番号344-0063 埼玉県春日部市緑町五丁目5番11号

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