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掲載日:2019年5月22日

川の改修の変遷

綾瀬川の歴史

〔江戸時代以前(16世紀まで)〕

  • 荒川は、寛永6年までは、現在の元荒川と綾瀬川に流れていた。現在の綾瀬川筋の方が低地を流れていたため、水量の大半が流れ込み元荒川筋より大河であった。
  • 綾瀬川は、当時の埼玉郡と足立郡の郡界になっていた。
  • この分派乱流は長期に及び「あやしの川」と呼ばれるようになり、それが「あやせ川」となったようである。

〔江戸時代 慶長年間(1610年頃)〕

現在の桶川市小針領家付近から下流地域の水田開発をし、荒川からの洪水を防ぐため、伊奈備前守忠次が、人工堤(「備前堤」と呼称された)を築造し、川の流れを切り離した。この締切堤(備前堤)により、元荒川と綾瀬川に分離され綾瀬川の起点となり現在に至る。

備前堤の写真

備前堤に残る御定杭の写真

〔江戸時代 寛永6年(1629年)〕

久下村(現熊谷市)で元荒川を締切り、現河道に沿って瀬替えを行い、入間川支線和田吉野川へ落とす。(1629年)一つの河川が小針五丁台(現桶川市)で分派し流れていた。現在の元荒川&荒川

〔江戸時代 寛永7年(1630年)〕

  • 蒲生村(現越谷市)と谷古宇(現草加市)を結ぶ新川が開削され、旧河道への流量を減らした。現在の古綾瀬川
  • 浮塚村(現八潮市)と小菅村を結ぶ新川が開削。曲流部を直線に付け替え工事を実施。
  • これらのショートカット工事により、排水の円滑を図ることが出来た。
    昭和4年ごろの草加市内の綾瀬川の写真

〔江戸時代 延宝8年(1680年)〕

  • 小菅村から直接隅田川に結ぶ新川を開削。
  • このころから用水取水は禁止され、用排水兼用であった綾瀬川は、排水専用の川になった。

〔明治44年(1911年)〕

  • 前年8月の洪水を契機として、利根川・江戸川・荒川の治水事業が国により着手された。それに伴い中川、綾瀬川も改修が開始することになった。
  • このとき綾瀬川は、荒川の支川であったが、中川(庄内古川)を幹川とする流域となった。

〔大正5年(1916年)〕

大正2年8月の洪水を基に、内務省が綾瀬川の改修計画を立てた。

〔大正9年~昭和4年(1920~1929年)〕

  • 綾瀬川の改修計画により、綾瀬川付け替え区間(下流部)3.5km区間の完成、通水した。
  • 中、上流部改修工事が完成。東京から原市沼川合流点(伊奈町)まで完成。その後(昭和9年)原市沼川合流点から上流部の工事完成。

〔昭和13年(1938年)〕

  • 6~9月、中川・綾瀬川流域において、洪水・豪雨・高潮により甚大な浸水被害が発生。
  • 改修工事が完成して8年経過したばかりであったが、埼玉県と東京府により新改修計画を策定した。

〔昭和22年(1947年)9月カスリーン台風〕
〔昭和24年(1949年)8月キャテイ台風〕

  • これらの台風によって、流域が大水害を被る。
  • それに伴い、下流部の改修を重視する方向となった。

〔昭和33年(1958年)9月洪水、昭和36年(1961年)6月洪水〕

  • これらの洪水によって、相次いでおおきな被害を受けた。
    当時の浸水被害状況図
  • 戦前からの懸念であった改修を早期に完成するため、改修計画を見直す。(昭和38年)
  • また、このころ都市化が進み、洪水被害が大きくなってきた。

〔昭和55年度〕

  • これらの洪水データーを基に、総合治水計画(新しい改修計画)の樹立。
  • 現在、改修工事実施中。

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利根川の東遷

〔江戸時代以前 文禄3年(1594年)まで〕

葛和田(現熊谷市)、川俣(現羽生市)から、粕壁(現春日部市)、草加を通り、現在の隅田川を河口として東京湾へ流れ込んでいました。

〔文禄3年(1594年)〕

  • 川俣で、南東にながれる「会の川」(現在の葛西用水路・大落古利根川)と東にながれる「合の川」(現在の利根川)の2つに分かれていた流路のうち、会の川を川俣で締め切り、主流を合の川へ瀬替えし、川口(現久喜市)で再びに合流する流れとなる。大落古利根川の誕生
    川俣締切址の石碑の写真
  • また、川口から「太日川」(現在の中川)へ開削を行い、隅田川ではなく現在の江戸川から東京湾へと流れるようにした。中川の誕生

〔元和7年(1621年)〕

  • 佐波(加須市)から栗橋(権現堂川分派点)に向け新しく水路(新川通)を開削し、利根川の本流を渡良瀬川に合流させる。
  • 栗橋から関宿町に新たに溝(赤堀川)を新設。

〔寛永12~18年(1635~1641年)〕

  • 関宿から金杉(現松伏町)を大規模に開削し新しい河道を設ける。江戸川の誕生
  • 小右衛門(現久喜市)から高須賀(現幸手市)までを掘削。現在の権現堂川
  • 権現堂川分派点(現五霞町)から境町までを本格的に開削(赤堀川)し、利根川の流水を常陸川にも注ぐようになる。

〔承応3年(1654年)〕

  • 赤堀川を増幅して掘削し、利根川の本流が常陸川へ注ぐように瀬替が完了した。現在の利根川
    赤堀川切広之図(埼玉県立文書館蔵)

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「江戸の礎」 埼玉平野の大改造

利根川や荒川等には現在の河道と相当離れた上、しかも流域も異なると思われる地域に「元」とか「古」と冠のつく主要な河川があります。これは遙か徳川家康の江戸入府にまで溯る壮大な河川総合開発が行われた結果であります。大河川が国境とされていますが、徳川以前は武蔵と下総の境が現在の春日部市とさいたま市岩槻区を流れる古隅田川であったこと、昔の荒川(綾瀬川)と利根川(大利古利根川)が吉川市あたりで合流し東京湾に流れ込んでいたなど、歴史の悠久とロマンを感じています。

江戸時代の治水方法に入る前に現在の手法を述べますと、東部地域に降った雨は中川をはじめ全て東京湾へと注ぎますが、何れの河川も都内の人口密集地帯を流下するため河道の拡幅には限界があります。このため流域に降った雨は一時的に「遊水池」に貯留し、洪水が去った後からゆっくり河道に流したり江戸川と中川・綾瀬川流域では、洪水の流出に時間があるのでこれを利用して「放水路」により江戸川へ放流する等と、「河道の拡幅」を組み合わせた治水方法を取っています。

さて家康は、1590年太田道灌築城の江戸城に入城するとともに、新たな江戸の街づくりに取り掛かります。はじめに江戸周辺の洪水防御と食料確保のため、大規模な治水対策と低湿地の開発に着手しました。このため、関東郡代伊奈氏により埼玉県内を流下していた利根川は数次の瀬替工事により1654年東京湾から太平洋へと流路が替えられました。これを「利根川の東遷」と呼んでいます。また荒川も1629年に熊谷久下地先で締め切られて入間川へ導かれました。以来入間川が荒川の本流となり「荒川の瀬替え」と呼ばれています。

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「江戸の守り」 平野は巨大な遊水地

江戸を洪水から守るため取られた治水対策は、洪水規模に応じた柔軟な対策が図られて明治時代に入り近代の治水対策が取られるまで続けられていました。

利根川では、関東平野を流下してきた洪水は行田市の酒巻と対岸千代田町瀬戸井に挟まれた「狭窄部」で絞られました。そして瀬戸井から上流に伸びて設置された「文禄堤」
と一体となってラッパ状に埼玉側に配置された「中条堤」の間に氾濫滞留するとともに、中条堤と一体に設置された右岸堤防に囲まれた妻沼地内に越流貯流されて此処で、流下する洪水流量は逓減されました。

この結果、下流の利根川の流量は中規模となりある程度暴れる流れの制御ができました。しかしながら一定量を超える洪水は以上の施設を乗り越え中川流域に押し寄せ、江戸の町は度々洪水に見舞われました。

このため流域内では政治力や技術力等により洪水防御の施策が講じられ、まず中条堤が江戸を守る先鋒として最初に立ち向かい、台地等と堤防の組み合わせに拠って大きく4段階に分けての洪水御堤群により、氾濫流を幾つかの流路に分散・貯留させながら徐々に流勢を減勢させて江戸へと流下させました。

住民の間ではこれらの堤防をはさみ、洪水を防ぐのに堤防の腹付・嵩上げを主張する下流側と上流の常に浸水・冠水の被害を受け遊水池とされる側との間では、絶えず地域間の対立が生じ論争が繰り返され「論所堤」と別名言われています。

これらの堤防は明治以降の改修により撤去された物もありますが、中条堤・備前堤・桜堤等が当時のままに吾々の身近に数多く現存しています。

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「江戸の米櫃」 埼玉平野が美田と航路

河川の変遷、新田開発また水運について、比較的解り易く遺構も多く現存している古い荒川筋を歩いてみては如何でしょうか。

熊谷市周辺の扇状地末端にあります。この地域では絶えず流路が変わり古代には熊谷市の遙か北側を流れて利根川に合流、その後鎌倉時代には北から南へ流れが変わり熊谷市久下から吹上、そして小針領より綾瀬川筋を流れていました。埼玉と足立の群境がこの川筋に置かれていることから大河であったことが推測されます。

今から400年程前の慶長年間(1596~1614)、下栢山村(蓮田市)と小針領家村(桶川市)の台地に挟まれた所に治水と新田開発目的で長さ900m程の備前堤(行田蓮田線・鍋蔓橋地点、近くに新幹線)が築かれました。これ以来、荒川は元荒川へと付け替えられ、綾瀬川は荒川から切り離されました。

その後更に、寛永6年(1629)熊谷市久下で締め切り新水路を開削し、入間川に荒川を付け替え現在の荒川が現れると共に、元荒川は水源地を無くしました。

新たに作り変えられた綾瀬川は、最上流の小針領家を初め下流の草加、千住、小菅の村々まで、沼沢地は広大な水田地帯へと開拓されたが備前堤を挟み上・下流の利害対立が生じました。

享年13年(1728)には見沼代用水路の開削に伴い上瓦葺村(原市川合流直下・立合橋)に掛樋が掛けられたが、綾瀬川の流下阻害が生じ下流は浸水被害が軽減され、上流は排水不良の新たな利害対立が起きました。

延宝8年(1680)には幕府より用水の堰止が禁止され、舟運が新たに開かれ物資の輸送が行われるようなりました。明治期の記録によれば、岩槻市加倉の新河岸川までが航行に適しており東京から草加までは帆船が竿で上がれるが、これ以北は狭く流れが速く曳き舟で遡上したと言います。

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県土整備部 総合治水事務所  

郵便番号344-0063 埼玉県春日部市緑町五丁目5番11号

ファックス:048-739-1435

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