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掲載日:2020年6月4日

川の改修の変遷

 中川・綾瀬川流域について

 綾瀬川の歴史

 利根川の東遷

 明治初期の河川改修と財政負担、旧河川法の制定

 大落古利根川、中川、元荒川の合流点付近の流路

 大落古利根川、中川右岸側の自然環境

 中川・綾瀬川・芝川総合増補計画

 

 中川・綾瀬川流域について

中川・綾瀬川流域は、利根川の改修と深く関わります。このエリアは低湿地で生産性が低かったのですが、徳川家康の転封後、治水を任された伊奈氏は利根川を東遷させ、荒川を西遷させて水害を減じながら地下水を低下させ、ある程度の生産のある農地を生み出してきた歴史があります。

ある意味人の手によって生み出された流域であるといえます。流域内には、大落古利根川や元荒川、古隅田川などの大河川を連想させる名称が残存していることからもうかがわれますが、時代の変化とともに大河川が流路を変えて来たのです。

総論として、土地が低く、水が溜まりやすく、排水しにくいという特徴があります。

先人たちがどうすれば、安全に暮らしていけるか、知恵を絞りながら水をコントロールの努力を繰り返してきた流域です。

以下に、綾瀬川、利根川をはじめとして河川改修の歴史を振り返ります。

 綾瀬川の歴史

綾瀬川は元荒川から分派し、湿地帯の中を蛇行しながら流れていたものを、江戸時代の新田開発を目的として、最上流部の備前堤設置による元荒川からの分離、河道の直線化及び伝右川開削による周辺湿地の排水能力の向上と水運確保が実施された結果、非常に人工的な影響が強くなった河川です。

〔江戸時代以前(16世紀まで)〕
荒川は、寛永6年までは、現在の元荒川と綾瀬川に流れていた。現在の綾瀬川筋の方が低地を流れていたため、水量の大半が流れ込み元荒川筋より大河であった。

  • 綾瀬川は、当時の埼玉郡と足立郡の郡界になっていた。
  • この分派乱流は長期に及び「あやしの川」と呼ばれるようになり、それが「あやせ川」となったようである。

〔江戸時代 慶長年間(1610年頃)〕

現在の桶川市小針領家付近から下流地域の水田開発をし、荒川からの洪水を防ぐため、伊奈備前守忠次が、人工堤(「備前堤」と呼称された)を築造し、川の流れを切り離した。この締切堤(備前堤)により、元荒川と綾瀬川に分離され綾瀬川の起点となり現在に至る。

備前堤の写真

備前堤に残る御定杭の写真

〔江戸時代 寛永6年(1629年)〕
荒川本川については、久下村(現熊谷市)で元荒川を締切り、現河道に沿って瀬替えを行い、入間川支川和田吉野川へ落とす(1629年)。一つの河川が小針五丁台(現桶川市)で分派し流れていた。現在の元荒川&荒川

〔江戸時代 寛永7年(1630年)〕
蒲生村(現越谷市)と谷古宇(現草加市)を結ぶ新川が開削され、旧河道への流量を減らした。現在の古綾瀬川

  • 浮塚村(現八潮市)と小菅村を結ぶ新川が開削。曲流部を直線に付け替え工事を実施。
  • これらのショートカット工事により、排水の円滑を図ることが出来た。
    昭和4年ごろの草加市内の綾瀬川の写真

〔江戸時代 延宝8年(1680年)〕

  • 小菅村から直接隅田川に結ぶ新川を開削。
  • このころから用水取水は禁止され、用排水兼用であった綾瀬川は、排水専用の川になった。

〔明治44年(1911年)〕

  • 前年8月の洪水を契機として、利根川・江戸川・荒川の治水事業が国により着手された。それに伴い中川、綾瀬川も改修が開始することになった。
  • このとき綾瀬川は、荒川の支川であったが、中川(庄内古川)を幹川とする流域となった。

〔大正5年(1916年)〕

大正2年8月の洪水を基に、内務省が綾瀬川の改修計画を立てた。

〔大正9年~昭和4年(1920~1929年)〕

  • 綾瀬川の改修計画により、綾瀬川付け替え区間(下流部)3.5km区間の完成、通水した。
  • 中、上流部改修工事が完成。東京から原市沼川合流点(伊奈町)まで完成。その後(昭和9年)原市沼川合流点から上流部の工事完成。

〔昭和13年(1938年)〕

  • 6~9月、中川・綾瀬川流域において、洪水・豪雨・高潮により甚大な浸水被害が発生。
  • 改修工事が完成して8年経過したばかりであったが、埼玉県と東京府により新改修計画を策定した。

〔昭和22年(1947年)9月カスリーン台風〕
〔昭和24年(1949年)8月キャテイ台風〕

  • これらの台風によって、流域が大水害を被る。
  • それに伴い、下流部の改修を重視する方向となった。

〔昭和33年(1958年)9月洪水、昭和36年(1961年)6月洪水〕

  • これらの洪水によって、相次いでおおきな被害を受けた。
    当時の浸水被害状況図
  • 戦前からの懸念であった改修を早期に完成するため、改修計画を見直す。(昭和38年)
  • また、このころ都市化が進み、洪水被害が大きくなってきた。

〔昭和55年度〕

  • これらの洪水データーを基に、総合治水計画(新しい改修計画)の樹立。
  • 現在、改修工事実施中。

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 利根川の東遷

〔江戸時代以前 文禄3年(1594年)まで〕

利根川は、葛和田(現熊谷市)、川俣(現羽生市)から、粕壁(現春日部市)、草加を通り、現在の隅田川を河口として東京湾へ流れ込んでいました。

〔文禄3年(1594年)〕

  • 川俣で、南東にながれる「会の川」(現在の葛西用水路・大落古利根川)と東にながれる「合の川」(現在の利根川)の2つに分かれていた流路のうち、会の川を川俣で締め切り、主流を合の川へ瀬替えし、川口(現久喜市)で再びに合流する流れとなる。大落古利根川の誕生
    川俣締切址の石碑の写真
  • また、川口から「太日川」(現在の中川)へ開削を行い、隅田川ではなく現在の江戸川から東京湾へと流れるようにした。中川の誕生

〔元和7年(1621年)〕

  • 佐波(加須市)から栗橋(権現堂川分派点)に向け新しく水路(新川通)を開削し、利根川の本流を渡良瀬川に合流させる。
  • 栗橋から関宿町に新たに溝(赤堀川)を新設。

〔寛永12~18年(1635~1641年)〕

  • 関宿から金杉(現松伏町)を大規模に開削し新しい河道を設ける。江戸川の誕生
  • 小右衛門(現久喜市)から高須賀(現幸手市)までを掘削。現在の権現堂川
  • 権現堂川分派点(現五霞町)から境町までを本格的に開削(赤堀川)し、利根川の流水を常陸川にも注ぐようになる。

〔承応3年(1654年)〕

  • 赤堀川を増幅して掘削し、利根川の本流が常陸川へ注ぐように瀬替が完了した。現在の利根川
    赤堀川切広之図(埼玉県立文書館蔵)

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「江戸の礎」 埼玉平野の大改造

利根川や荒川等には現在の河道と相当離れた上、しかも流域も異なると思われる地域に「元荒川」とか「大落古利根川」などの名称を持つ主要な河川があります。

これは遙か徳川家康の江戸入府にまで溯る壮大な河川総合開発が行われた結果です。大河川が国境とされていますが、徳川開幕以前は武蔵と下総の境が現在の春日部市とさいたま市岩槻区を流れる古隅田川でした。今でこそ小さな河道になっていますが、かつては大落利根川から元荒川に注いでいたこともあるようです。古隅田川(旧古隅田川)はそれだけ大きな河川だったようで、今日もなお旧国道16号(現:さいたま春日部線)と旧古隅田川の交点には「業平橋」があり、その名残をしのばせます。当時の国境の様子は「更級日記」などの古典文献からも読み取ることが可能です。

昔の荒川(綾瀬川)と利根川(大利古利根川)が吉川市あたりで合流し東京湾に流れ込んでいたなど、歴史の悠久とロマンを感じさせます。

江戸時代の治水方法に入る前に現在の手法を述べますと、東部地域に降った雨は中川をはじめ全て東京湾へと注ぎますが、何れの河川も都内の人口密集地帯を流下するため河道の拡幅には限界があります。このため流域に降った雨は一時的に「遊水池」に貯留し、洪水が去った後からゆっくり河道に流したり江戸川と中川・綾瀬川流域では、洪水の流出に時間があるのでこれを利用して「放水路」により江戸川へ放流する等と、「河道の拡幅」を組み合わせた治水方法を取っています。

さて家康は、1590年太田道灌築城の江戸城に入城するとともに、新たな江戸の街づくりに取り掛かります。はじめに江戸周辺の洪水防御と食料確保のため、大規模な治水対策と低湿地の開発に着手しました。このため、関東郡代伊奈氏により埼玉県内を流下していた利根川は数次の瀬替工事により1654年東京湾から太平洋へと流路が替えられました。これを「利根川の東遷」と呼んでいます。また荒川も1629年に熊谷久下地先で締め切られて入間川へ導かれました。以来入間川が荒川の本流となり「荒川の瀬替え」と呼ばれています。

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「江戸の守り」 平野は巨大な遊水地

江戸を洪水から守るため取られた治水対策は、洪水規模に応じた柔軟な対策が図られて明治時代に入り近代の治水対策が取られるまで続けられていました。

利根川では、関東平野を流下してきた洪水は行田市の酒巻と対岸千代田町瀬戸井に挟まれた「狭窄部」で絞られました。そして瀬戸井から上流に伸びて設置された「文禄堤」と一体となってラッパ状に埼玉側に配置された「中条堤」の間に氾濫滞留するとともに、中条堤と一体に設置された右岸堤防に囲まれた妻沼地内に越流貯流されて此処で、流下する洪水流量は逓減されました。

この結果、下流の利根川の流量は中規模となりある程度暴れる流れの制御ができました。しかしながら一定量を超える洪水は以上の施設を乗り越え中川流域に押し寄せ、江戸の町は度々洪水に見舞われました。

このため流域内では政治力や技術力等により洪水防御の施策が講じられ、まず中条堤が江戸を守る先鋒として最初に立ち向かい、台地等と堤防の組み合わせに拠って大きく4段階に分けての洪水御堤群により、氾濫流を幾つかの流路に分散・貯留させながら徐々に流勢を減勢させて江戸へと流下させました。

住民の間ではこれらの堤防をはさみ、洪水を防ぐのに堤防の腹付・嵩上げを主張する下流側と上流の常に浸水・冠水の被害を受け遊水池とされる側との間では、絶えず地域間の対立が生じ論争が繰り返され「論所堤」と別名言われています。

これらの堤防は明治以降の改修により撤去された物もありますが、中条堤・備前堤・桜堤等が当時のままに吾々の身近に数多く現存しています。

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「江戸の米櫃」 埼玉平野が美田と航路

河川の変遷、新田開発また水運について、比較的解り易く遺構も多く現存している古い荒川筋を歩いてみては如何でしょうか。

熊谷市周辺の扇状地末端にあります。この地域では絶えず流路が変わり古代には熊谷市の遙か北側を流れて利根川に合流、その後鎌倉時代には北から南へ流れが変わり熊谷市久下から吹上、そして小針領より綾瀬川筋を流れていました。埼玉と足立の群境がこの川筋に置かれていることから大河であったことが推測されます。

 

今から400年程前の慶長年間(1596~1614)、下栢山村(蓮田市)と小針領家村(桶川市)の台地に挟まれた所に治水と新田開発目的で長さ900m程の備前堤(行田蓮田線・鍋蔓橋地点、近くに新幹線)が築かれました。これ以来、荒川は元荒川へと付け替えられ、綾瀬川は荒川から切り離されました。

 

 

その後更に、寛永6年(1629)熊谷市久下で締め切り新水路を開削し、入間川に荒川を付け替え現在の荒川が現れると共に、元荒川は水源地を無くしました。

 

新たに作り変えられた綾瀬川は、最上流の小針領家を初め下流の草加、千住、小菅の村々まで、沼沢地は広大な水田地帯へと開拓されたが備前堤を挟み上・下流の利害対立が生じました。

享年13年(1728)には見沼代用水路の開削に伴い上瓦葺村(原市川合流直下・立合橋)に掛樋が掛けられたが、綾瀬川の流下阻害が生じ下流は浸水被害が軽減され、上流は排水不良の新たな利害対立が起きました。

延宝8年(1680)には幕府より用水の堰止が禁止され、舟運が新たに開かれ物資の輸送が行われるようなりました。明治期の記録によれば、岩槻市加倉の新河岸川までが航行に適しており東京から草加までは帆船が竿で上がれるが、これ以北は狭く流れが速く曳き舟で遡上したと言います。

  明治初期の河川改修と財政負担、旧河川法の制定

江戸時代、治水事業は各藩の責任において実施することを原則としており、各藩で領土の保全に努めたため、水系一貫の思想に基づいた治水政策を講ずることができませんでした。

江戸時代の経過を経て、明治新政府は、明治4年(1873)に制定した「河港道路修築規則」で河川を一等河、二等河、三等河の三等に分け、管理主体や工事費用の官費負担割合など治水行政の基本を定めました。旧河川法が制定させれる以前の河川改修は、「河港道路修築規則」が基本でした。

一等河は「一河ニテ其利害数県ニ関スル河川」、二等河は「他管理ノ利害ニ関セサル河川」、三等河は「市街郡村ノ利害ニ関スル河川及灌漑用水路」とされていました。一等河、二等河は、工事費の6割を官費、残り4割を民費で負担することとし、三等河は地方民が負担することとしていました。

埼玉県では、明治12(1879)年の県議会開設にあたって「土木規則」を定めました。この規則によって利根川、渡良瀬川等の16河川が県費支弁河川となりました。これに加えて明治14(1879)年に大落古利根川など8河川が追加されました。

そして、政府は、それまで地方の土木費に充てられていた官費下渡金が明治14年度から原則として廃止となったため、不況とあいまって地方の負担が一層厳しくなりました。

県費支弁河川は、利根川や荒川を含んでいるため、埼玉県にとって大幅な財政支出を強いたので、大幹川に対する国庫補助要望が強く、明治15(1882)年から毎年のように国に要望を行いました。

河川工事は、明治当初は舟運やかんがい用水の確保等の低水工事が主でした。しかしながら、明治も半ばを過ぎる頃には鉄道の普及につれて舟運が衰え、一方で、河川沿岸の開発に伴って洪水による被害が増大し、堤防によって洪水の氾濫を防止する高水工事への転換が図られていったのでした 。
我が国は、明治22年の大日本帝国憲法の発布以降、行政の各分野にわたり、近代的中央集 権国家としての法典整備が進められました。こうした中、明治29(1896)年に旧河川法が制定され、我が国で最初の近代的な公物管理制度として、河川管理についての体系的な法制度が整備された。同時に国の直轄事業による河川改修工事も可能となりました。

旧河川法は、その成立の背景から国家権力による統制的色彩が強く、また、当時の社会情勢を反映して利水よりも治水に重点が置かれたものとなっていました。

※参照 浜田忠久著「土木費官費下渡金の廃止と水利組織の法制化(Ⅱ)」『水利科学』第285号2005年

         小林寿朗著「中川流域の治水史」『土木史研究』第12号1982年6月

 

 

 大落古利根川、中川、元荒川の合流点付近の流路

明治13年陸軍作成迅速図 大落古利根川、元荒川合流

(上図:明治13年陸軍作成迅速図 「大落古利根川と元荒川の合流点付近」に現在の中川の河道(青ライン)を付加したもの)

明治13年陸軍作成「迅速図」には、越谷市、吉川市、松伏町にまたがる地域に現在の中川の流路がありません。これは当該区域の中川が後世(大正・昭和)に開削により造られたことを物語っています。

この地域の上流には庄内古川と呼ばれる川筋があり、松伏町金杉あたりで東へ屈曲して江戸川へ注いでいました。庄内古川は江戸時代寛永末から正保にかけて開削され、北葛飾郡北中部の悪水路(農業用排水路)として利用されていました。しかし、下流の地域は排水不良で水禽の遊泳地のような状況になっていました。明治になっても状況は変わらず、明治44年8月5日、庄内古川管理者北葛飾郡長武田熊蔵(※)から平田内務大臣に「江戸川改修ニ伴フ庄内古川前後処分ニ関スル意見書」等が提出されるなど、江戸川を改修するに併せて庄内古川の改修を要望する声が上がっていました。

既にこの時代に排水機場の設置など検討されていましたが、住民の賛同がなかなか得られない状態が続いたようです。しかし、金杉村(現在の松伏町金杉)の岡野平八という人が自己の資金で排水機場を設置して関係住民と請負契約をして排水を行っていたという記録が残っています。この効果が非常に大きく、明治39年以降この地域では悪水路普通水利組合が続々と設立されて、大正12年の排水機による治水対策が講じられました(出所:庄内古川外三悪水路改修工事概要)。

要望もあり、大正4年に内務省が中川改修を発表し、庄内古川を付け替えて大落古利根川に疎通することとなりました。下図を御覧いただくと分かりますが、江戸川に流入していた庄内古川の流末を松伏町金杉付近から人工的に開削して越谷市増森地先の大落古利根川につなぐといった大工事を断行したのでした。これにより吉川市大字川藤、大字須賀が吉川市から切り離されて飛び地となったのは、この開削工事の結果です。

この改修事業は、内務省東京土木出張所があたりました。当初大正11年度をもって終了する予定でしたが、大正14年度に変更され、さらに3か年度の変更があり、昭和3年にようやく工事が終了し、現在に至っています。

このようにして現在の中川の流れが出来上がっています。

 

庄内古川改修

 ※当時郡制(ぐんせい、明治32年3月16日法律第65号)が敷かれていました。大正12年に郡制度は廃止されています。

 

 大落古利根川、中川右岸側の自然環境

中川については、大臣管理区間上流端から大落古利根川合流点までは、かつて江戸川へ合流していた庄内古川を中川へ付け替えた区間です。高水敷を持たず河岸の入り組み等も少なく、緩やかな田園地帯を流れる水路的環境となっています。この区間は、モツゴやタナゴ類など純淡水域の水生生物が見られますが、全体的に生物生息環境としては単調です。(中川と大落古利根川の相関については上図参照)
大落古利根川合流点から潮止橋までは、かつての利根川本川が形成した自然堤防が見られる区間です。

自然堤防は特に右岸側で原形をとどめており、自然堤防上の屋敷林・雑木林から農耕地、水際のハンノキ林、ヨシ原、干潟と様々な生物の生息環境がモザイク状に連続していることが特徴的です。このように、人の生活と河川の自然環境が一体化した環境は、首都圏では数少ない場所です。

新方川の合流する付近の越谷市中島には、都市部では非常に稀となったシラサギ類の集団営巣地があります。日本が暖かくなる春から夏にかけて繁殖のため東南アジア等から飛来しています。この集団営巣地は、通称「サギコロニー」と呼ばれており、「ダイサギ」「チュウサギ」「コサギ」「ゴイサギ」「アマサギ」の5種類のサギの営巣が確認されています。周辺の水田などの餌環境と安全な河川の環境が残されていることがうかがわれます。

左岸側は高水敷が全くなく、一部水際部にヨシ原が形成される他は、自然環境に乏しい区間です。

 中川・綾瀬川・芝川総合増補計画

 この項は、中川・綾瀬川とはやや離れた場所にある「新芝川」開削に関連する記述がありますが、「中川・綾瀬川・芝川総合増補計画」という計画の存在を紹介します。この計画は、放水路を新設して芝川から綾瀬川へ、綾瀬川から中川へ、中川から江戸川へ排水先を移していくというものでした。この理念は約60年かけて実行され平成に入って綾瀬川放水路の完成により達成されたと理解することができます。また、新芝川開削へと至った経緯や調節池整備による一時貯留による治水対策など、中川・綾瀬川流域における総合治水対策につながる経過を理解することができます。

①中川・綾瀬川・芝川総合増補計画

 昭和13年(1938)6月・7月の出水及び9月の高潮による洪水で、県南東部は連続する水害を被り、住民生活や産業に重大な損失が発生しました。このため、府(都)・県で中川水系の計画を協議し「中川・綾瀬川・芝川3川総合増補計画」が立案されました。これは、中川・綾瀬川・芝川増補改修計画として打ち出され、「中川は潮止村(八潮市)地先で綾瀬川の分流を受け入れる」「中川は、奥戸村(葛飾区)で東京湾に分流する」「綾瀬川は八幡村(八潮市)で中川へ分流させる」「綾瀬川は五兵衛(足立区)で芝川から毎秒84㎥受け入れる」「芝川は、鳩ケ谷町(川口市)で分流し、放水路綾瀬川へ排水する」といった内容でした。

東京府は中川に昭和6年(1931)に掘削された中川放水路(現中川)とは別の新しい放水路をつくることになりました。昭和14年に改修事務所を開設して、中川下流の測量と地質調査に着手し、昭和16年(1941)から用地買収、工事がはじまりました。中川放水路は16,000mのうち170m施工し、用地取得率は57%となっていましたが、太平洋戦争が激しくなった昭和19年(1944)末に一時中断となりました。

また、芝川では中流の川口市青木地先で分流して鳩ヶ谷市を通り、東京府内を東進して綾瀬川に達する放水路を新規開削する計画でした。放水路は延長10.713kmで、埼玉県の施工区間は延長3.913km、東京府施工区間は6.800kmとされていました。上流から流下する高水毎秒65㎥を分流し、府内の支川流入を加えた毎秒84㎥を綾瀬川に排水する放水路です。埼玉県は、この計画に基づき昭和15年末から事業に着手し、同18年度末で約1.50km、全延長の約3分1の掘削を終えました。太平洋戦争の激化により事業は中断しました。しかも東京府側の放水路工事は未着手でした。
 

②戦後の改修事業再開

「中川・綾瀬川・芝川総合増補計画」に基づく改修は太平洋戦争で中断しました。しかし、昭和22年(1947)9月のカスリン台風が利根川水系全域にわたり大きな被害を及ぼしたことから、中断された「中川・綾瀬川・芝川総合増補計画」への関心を呼び戻しました。

 

(東京都の動き)

東京都内においては新中川放水路の必要性があらためて認識され、昭和24年(1949)に工事が再開されました。昭和38年(1963)3月16日 今井水門の工事が竣工し、新中川放水路(現新中川)の工事が完了しました(延長8,884m 幅員123m)。この放水路は、葛飾区高砂一丁目と二丁目の間で中川から分流し、江戸川区の中央を流れて江戸川四丁目先で旧江戸川に合流しています。

 

昭和41年(1966)に、かつての中川を旧中川、中川放水路を中川、新中川放水路を新中川と改称。同時に荒川放水路も荒川と改称されました。

 

(新芝川開削へつながる経過、調節池整備の発想)

また、芝川においても昭和27年度(1952)に改修事業が再開されました。

 

芝川の戦後改修の柱は次のとおりです。

「その1・河道を拡幅して高水流量の増加を図る」

「その2・綾瀬川へ分流する放水路計画を廃し、ルートを変更して県内で荒川へ分流する」

「その3・中流見沼地域に調節池を設け、流出増を一時貯留する」

「その4・下流低地部の芝川流域は、低水位河道とし内水排除の排水機場を設ける」というものです。

当初は「その1」及び「その2」の計画で出発しました。その後、昭和33年9月の狩野川台風と同44年6月の台風による水害後、その3およびその4が加えられました。

まず、昭和27年度に再開された改修事業は、戦前から浸水被害が多発する川口市元郷地先に排水機場を建設するというものでした。毎秒5㎥の排水ポンプ2台を据付けるもので、昭和31年度に完成しました。

埼玉県は昭和34年に中川水系調査事務所を中川水系工事事務所に改称し、河川改修工事への取り組みを強化しました。さらに、昭和37年には芝川事業所を設けて芝川の改修を加速させました。

続いて、中断された放水路開削については、戦後になってから東京都が都区間の施工困難の意向を示しました。都県で協議の結果、都区間の施工は難しいとして判断され、放水路ルートは都県境界沿いに荒川へ合流させる現在の新芝川の流路のとおり計画が修正されました。昭和32年11月、県は放水路工区の事業を再開しました。こうして昭和40年(1965)4月1日、新河川法に基づいて放水路は一級河川新芝川となり知事管理区間に指定されました。同年9月1日、新芝川は仮通水を開始。新芝川は中・上流域の排水を受けるため、下流部川口市の市街地区間は高築堤の河道となりました。

  以上のように、「中川・綾瀬川・芝川総合増補計画」には、現在の総合治水の濫觴と見ることができるといえます。すなわち、河道幅拡幅のほかに、放水路の建設、調節池や排水機場の整備などを総合的に講じる治水方法です。

③中川・綾瀬川・芝川総合増補計画の理念を実現

 昭和33(1958)年9月の狩野川台風により中川流域の約28%、数日間に及ぶ湛水被害が生じました。こうした中で河川改修を促進する要望が続出し、昭和36(1961)年に建設省(現国土交通省)は中川と綾瀬川に建設省直轄管理区間を設けて、中川は放水路分派点から大落古利根川合流点まで、綾瀬川については内匠橋から東武伊勢崎線橋梁までを編入しました。昭和37(1962)年度には、中川の分派点から都県境までの河川改修を開始しました。

 (三郷放水路)

 昭和38年度、建設省は「中川総体計画」を策定し、この中で三郷放水路が位置付けられました。建設省は昭和45年に三郷放水路の河川予定地を告示して昭和47年から本格的な整備に着手しています。三郷放水路の建設理由は、次のとおりです。

 ・中川の高水の一部を江戸川へポンプ排水し、中川の水位を安定させる。

・下流部は、人口密集地帯で堤防拡巾や河道整正が非常に困難なので、上流部の三郷放水路で高水の一部を江戸川へポンプ排水することで、安全度を向上させる。

・中川と江戸川の間にある大場川、第二大場川の内水をポンプにより江戸川に排水し被害を軽減する。

・高潮時に中川下流にある今井水門(東京都江戸川区)、上平井水門(東京都葛飾区)が閉鎖されたとき、中川の水位が上昇するので、放水路により江戸川に排水し水位上昇を緩和する。

・放水路を利用して清浄な江戸川の流水20㎥/Sを限度として中川に導水し、下流部の浄化を図る。

・ 江戸川の利水に不足を生じた時、最大10㎥/Sの範囲で中川の余剰水を江戸川に導水し、利水の安定化を図る。

 こうして昭和54年3月、毎秒100㎥規模で暫定完成しました。三郷放水路の整備と連動して、それまで知事管理区間の河川であった大場川の一部(200m)が直轄区間へ編入されました。

 中川の下流(東京都内)の水門が閉鎖されると三郷放水路を通じて江戸川へ排水し、流域の治水安全度を向上させています。

 (綾瀬川放水路)

 綾瀬川放水路構想は、戦前の「中川・綾瀬川・芝川総合増補計画」の中に濫觴が見られます。

綾瀬川は昭和30年代以降の急速な市街化による洪水被害と工場排水、家庭排水による水質汚濁が進行し、悪臭が漂う全国一汚れた川といった不名誉な状況にありました。

特に草加市内は、綾瀬川あふれて冠水するといった被害に悩まされていました。

このため以下の目的を有する放水路が計画されました。

・綾瀬川の洪水の一部を中川へポンプ排水し、綾瀬川上流における湛水被害の軽減と綾瀬川下流における洪水に対する安全度を図る。

・綾瀬川と中川の間にある古綾瀬川の洪水、八条用水流域の内水を処理し、湛水被害の軽減を図る。

・放水路を利用して中川の流水を毎秒5㎥を限度として綾瀬川に導水し、綾瀬川の水質改善を図る。

 綾瀬川放水路は、「中川・綾瀬川・芝川総合改修増補計画」に位置づけがありましたが、現在のルートよりも約4kmほど下流でした。昭和38年の「中川総体計画」でも同様でした。

 しかし、昭和43年東京外郭環状道路、国道298号が計画されると、土地の有効活用の観点から現ルートの草加市八幡町地先から八潮市八条地先を結ぶルートに変更され、昭和44年に都市計画決定されました。

 その後、外郭環状道路計画の凍結による遅れがありましたが、昭和54年から単独機関の用地買収が着手され、昭和58年度から着工されました。外郭環状道路の北側と南側にそれぞれ放水路がありますが、北側が優先整備されて平成4年8月に暫定通水しました。

 昭和13(1938)年に構想された中川・綾瀬川・芝川総合増補計画の理念は、60年をかけて実現されたということができます。三郷放水路と排水機場、綾瀬川放水路と八潮排水機場を整備し、低湿地の治水対策の要としました。

 これに加えて春日部市内に建設された首都圏外郭放水路が加わったことで中川・綾瀬川流域の治水能力は大きく向上したと考えられます。

 

※参照  埼玉県編「中川水系 Ⅲ 人文」平成5年2月10日

           小林寿朗「中川流域の治水史」『土木史研究』第12号 1992年

           彩の川研究会編「埼玉県内の『主要な治水施設』の規模と役割」調査報告書 平成30年3月

            江戸川区郷土資料室ホームページ「新中川」(令和2年1月閲覧)

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県土整備部 総合治水事務所  

郵便番号344-0063 埼玉県春日部市緑町五丁目5番11号

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