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掲載日:2023年11月1日

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中山道最大の宿『本庄宿』の再発見 vol.2

宝珠寺~傍示堂集落センター

江戸時代はこんな感じ

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拡大図(JPG:2,653KB)

 

これが現在 

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拡大図(JPG:2,947KB) 

 

 

 

 

 

 

※この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図(タイル)を複製したものである。
(承認番号 平28情複 第1079号)
 

宝珠寺前から北西方向を望む 

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牧西村 

旗本丸毛氏、奥津氏、横田氏、水野氏、山本氏、西宮氏の知行所。文政年間(1818年~1830年)の家数は130軒。
当村にはさしたる名物はなかったが、街道沿いの家数は50軒ほど、また、街道沿いには商売を営む家が14軒ほどあったらしい。
このうち、茶屋を営む店が5軒、小間物・荒物の店が3軒、うち1軒は酒屋と質屋を兼ねている。ほかに、刻みたばこ屋4軒、湯屋渡世と髪結が1軒である。
本庄宿の定助郷村である牧西村は、助郷の「用元」を勤め、助郷運営にはかなり大きな力を持っていたらしい。
寛政6年には、火災により村方のほとんどを焼失したとの記録が残っている。
牧西村には立場があった。立場とは、次の宿場までが遠い場合に、その途中に休憩施設として設けられたものである。
十返舎一九の「諸国道中金の草鞋」には「ほんぜうを打すぎて、もくさいといふたてば、きれいなるちゃやあり、したくするによし」とこの立場をほめている。


宝珠寺から少し進むと、藤田郵便局の向かいに立派な長屋門がある。小川家の長屋門だ。

 

小川家長屋門

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資料には「小川家助郷用長屋門」と記されている。白壁が大分剥がれかかっているが、立派な長屋門である。
小川家は旗本山本氏の名主を勤め、同家は本庄宿助郷村の「用元」も世襲していた。
助郷とは、参勤交代などの時に、宿場の近くの諸村から馬と人足を出させる制度である。

ちょっと一息

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街道を進むと田畑が広がる風景となる。

 

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すると右側(北側)に石仏らしきものが。
近づいてみると、賽神、子育て地蔵、庚申塔が畑の前の道路に並んでいる。



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しばらく行くと右側に長屋門が見えてきた。比較的新しい門だ。門の西隣には「内野歯科医院」の看板がある。これが内野家の長屋門だ。

内野家の長屋門

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ちょっと一息 

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次回は、傍示堂から大正院までを辿ります。 

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