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総合トップ > 健康・福祉 > 障害者福祉 > 障害者の自立 > 塙保己一物語 The story of Hokiichi Hanawa

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掲載日:2010年3月19日

塙保己一物語 The story of Hokiichi Hanawa

塙保己一物語 パンフレット

「塙保己一物語」一括ダウンロード(PDF:4,473KB)

塙保己一 ヘレン・ケラーが目標とした人 Helen Keller’s Role Model

私は特別の思いをもって、埼玉にやってまいりました。

それはつらく苦しい時でも、この埼玉ゆかりのハナワ・ホキイチ先生を目標に頑張ることができ、“今の私”があるからです。

上の言葉は、世界的な偉人として讃えられている、目も見えず、耳も聞こえず、そのために話すことも困難だった女性、ヘレン・ケラーが、昭和12年(1937年)埼玉会館で開かれた講演会で語った言葉です。

塙保己一は、江戸時代後期に活躍した埼玉県本庄市出身の全盲の学者です。

現在でも『これをなくしては日本文化の歴史を理解することは困難』とまで言われる前人未到の大文献集『群書類従』を編集・出版しました。

世界的偉人ヘレン・ケラーが目標とした塙保己一とはどんな人物だったのでしょうか。

塙保己一とは

せいか

塙保己一は、延享3年(1746年)に武蔵国児玉郡保木野村に生まれました。

幼い頃から、大人が読んでくれた本の内容を記憶し忘れない子どもだったそうです。

7歳のとき、病気がもとで失明してしまいます。

さらに12歳のときには心の支えだった、母を亡くし、これから先どう生きていけばよいのか途方にくれてしまいます。

そんなとき、江戸には「太平記読み」と呼ばれ、物語を語ることによって生計を立てている人たちがいるという話しを聞きます。

学問好きで、記憶力が抜群のこの少年は「自分にもできる仕事がある!」と考え、江戸に出ていくことを決心しました。

15歳で江戸にでた保己一は、雨富検校という師匠の盲人一座に入門しました。

しかし、江戸での現実は厳しく、あんま・はりの仕事や三味線・琴の芸能関係、金貸し業ばかりで、保己一の望む学問はさせてもらえなかったのです。

どうしても好きになれない盲人一座の修業にあけくれる生活に、保己一は絶望しました。

将来の夢や希望も持てなくなった保己一は、とうとう自殺未遂事件を起こしてしまいます。

師匠の雨富検校は、何をさせてもものにならない、ふがいない保己一をどうしたものかと思案しました。

思いあぐねた末、本人が好きな学問の道に進むことを許したのです。

それからの保己一は、水を得た魚のように、何事にも前向きに取り組み、次第にあんまの腕もあがっていきました。

これには、彼の学問好きを知って、上手いとは言えないあんまながらもひいきにしてくれた方の支えもありました。

本を読んでもらっては、お礼にあんまをしてお返したのです。そうしているうちに次第に学者としての評判が高まりす。

保己一の盲人一座での地位が向上するにつれ、自然と協力してくれる人たちも増えていきました。

安永8年(1779年)保己一34歳のとき、次のように思い立ちました。

「学問をしたい人はだれでも、いつでも、どこででも必要な書物が読めるようにしてあげたい。

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先祖から託された日本の文化を絶やすことなく、しっかりと次の世代に伝えていきたい・・・
これこそ自分に与えられた使命だ」

のちに文化史上かつてない大文献集となる「群書類従」の編集・出版に着手することを決意したのです。

保己一が「群書類従」をまとめるまで、貴重な書物が大名や公家など、一部の限られた人のもとにあり、人々の目に触れることはあまりありませんでした。

また、当時の書物は、書き写して伝えられたものだったため、本によって内容が異なったり、一部が欠けていることなどがありました。

保己一はこれらの違いを丁寧に補正してまとめています。

全国に散らばっていた多くの古い記録や史料を集めて分類、整理を41年間にわたって行いました。

現代のように印刷技術がないこの時代です。

保己一は、このまとめた「群書類従」を多くの人が手にできるよう、版木(木の板に文字を彫り込んだもの)に彫り、印刷できるようにしました。

全部で17,244枚にも及びます。

この版木は今なお刷り立てられており、保己一がまとめた当時と同じ「群書類従」を手にすることができます。

目が見えない保己一にとって、勉強方法は人に読んでもらったものを記憶していくことでした。

その上で、膨大な量の文献をまとめるのは大変な作業です。

また、版木を彫らせるにも莫大な費用がかかったことでしょう。

研究面でも多くの人々の協力が必要であったことは想像に難くありません。

そこには、彼が優れた人物であり、大変な努力家であったことはもちろん、多くの人々に多大な協力をあおげる人柄の持ち主であったことがわかります。

そしてついに文政2年(1819年)、666冊からなる「群書類従」を出版するという大事業を成し遂げました。

すでに74歳となっていました。

目が見える人であっても成し遂げることは困難な大事業を完成できたのは、「後世の人たちに、日本人の宝物である古来の精神文化を絶やすことなく伝えていきたい」という熱い思いでした。

どんな困難な条件のもとでも、くじけることなく一途に自分の道を進んだのです。

この他にも、保己一は、日本独自の精神、特に外国からの影響を受けない日本古来の文化、日本人のこころを研究する現在の大学ともいえる学問所「和学講談所」を設立し、後継者を養成しました。

そして、文政4年(1821年)2月、盲人社会の最高位である総検校につき、同年9月に天命を全うしました。

hokiichi

Hokiichi Hanawa~The famous blind scholar of Japan ~ (1746-1821)

Hokiichi Hanawa, the famous blind scholar is known for compiling "Gunsho ruiju (Great collection of old Japanese documents)".

Hokiichi Hanawa was born in the village of Hokino in Musashi Province (present-day Honjo City, Saitama Prefecture), but he went blind by the age of 7.

He went to Edo at 15, where he became a disciple of Ametomi Kengyo (Officer Ametomi).

He couldn’t progress in music with the Koto or Shamisen, and could not improve his acupuncture or massage skills.

However, he never gave up.

As his master allowed him to do anything he wanted, he decided to start studying.

He learned history, literature, medical science and jurisprudence from several masters.

There is a well-known story about him from this period.

One summer night, the wife of a samurai read a book for Hokiichi.

She found that he had tied his hands together.

Asked why he did so, he replied, "Whenever I move my hand to brush mosquitoes away, I tend to miss words of your reading.

So as not to do that, I did this."

At the age of 34, he made up his mind to start compiling the national history of Japan.

At last, 41 years after starting the project, he completed the great work of publishing, "Gunsho ruiju".

It consisted of 666 volumes.

He also established “Wagaku Kodansho”, an institute for the study of Japanese classics, in 1793.

In addition to scholarship, he devoted himself to his work, holding administrative posts responsible for supervision of the blind, including the lower rank of Koto, then Kengyo (Officer).

Ultima電話y, in his final years, he advanced to the position of Sokengyo (Superior Officer).

In 1937, Ms. Helen Keller, who had three disabilities, visited Japan.

She expressed her impression as follows: "When I was a child, my mother told me that Mr. Hanawa was my role model.

I believe that his name will pass down from generation to generation like a stream of water."

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福祉部 障害者福祉推進課 社会参加推進・芸術文化担当

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