総合トップ > 県政情報・統計 > 広報 > テレビ・ラジオ・広報紙・SNSなど > 広報誌 > 広報紙「彩の国だより」 > 彩の国だよりWEB版 > 目次(彩の国だより 令和2年2月号) > 祝 特別史跡 埼玉古墳群を読み解く
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掲載日:2020年2月1日
埼玉古墳群の誕生前は行田市周辺には古墳が少なく、比企地方と児玉地方を中心に古墳が造られていた。そこに突如120mを超える稲荷山古墳が造営され、その後、大型古墳が連続して造営される特別な地となった。
鉄剣にワカタケル大王の銘文があることから、近畿地方と関係のある一族が、その権勢を誇るために造営を始めたとも考えられる。
丸墓山に登ってみると、古墳群で最初に造られた稲荷山古墳を見下ろすように巨大。しかもなぜ円墳なのか?
日本書紀には武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)(地方長官)の座を同族の二人が争った記述がある。一人はヤマト政権の助力を得て勝利し、もう一人は、当時の秩序に刃向って敗れた。その敗者こそ巨大円墳である丸墓山の被葬者だという興味深い説もある。
古くからさまざまな議論がされているが、墓誌の存在しない古墳被葬者についての名前を資料から追求することは極めて困難となっている。しかし、墳墓の大小や豊かな副葬品の質や量などから、生前の被葬者の地位・身分を推し量ることができる。
将軍山古墳展示館では、埋葬時の様子を再現。河原石を敷いた上に棺が置かれ、鏡や鉄矛などの副葬品が配置されている。
江戸時代、鉄砲山古墳は忍藩の砲術練習所になっていたことが分かっている。墳丘周囲には、的を観察する場所の「矢見塚」の遺構がある他、球形の鉛玉が多数出土している。
↑「炮術形状図式」(行田市郷土博物館蔵)
昭和初期、低地を埋め立てる土を得るために削られていった古墳。昭和10年、古墳の消滅を危惧した地域住民の有志が保存要望書を県知事あてに提出。これを受け知事が文部大臣に上申。昭和13年、国史跡に指定されるに至った。切迫した状況から古墳を守った地域の人々。史跡指定後も標識や注意札を設置するなど、史跡の保存に尽力した。
↑昭和14年、保存運動を記念し建てられた石碑
(1)外堀から内側へ入る際の土橋はすべて西側。
(2)儀礼を行った造出しは、すべて西側。
(3)大半の人物埴輪や馬形埴輪も西側から発見される。
以上のことから、当時の人々は西側を古墳の正面と認識していたことがうかがえる。
千葉県房総半島産出の通称「房州石」を石室壁に積み上げている。当時、東京湾を経由して舟運により当地まで運んだと考えられている。
全長53mと最も小さな愛宕山の円筒埴輪は高さ40cm。全長73mの瓦塚古墳の円筒埴輪は70cm。全長120mの稲荷山古墳の円筒埴輪は約90cm。
古墳の大きさに比例することから、円筒埴輪の大きさにもルールがあったことがよく分かる。
昭和43年、規模の小さい愛宕山古墳を調査する予定だったが、急きょ、半分壊れていた稲荷山古墳を調査。盗掘を免れた礫槨から鉄剣が出土。その発見から10年。保存処理を行うため、鉄さびを落とす作業中、金色に光る部分を発見。X線検査をしたところ、文字があることが判明した。
金錯銘鉄剣復元品 特別公開
2月16日(日曜日)まで
現代の名工たちによって再現された鉄剣。詳しい調査に基づき、本物の材料や技法を用いています。国宝 金錯銘鉄剣の実物と並べて特別公開しています。
まが玉づくり体験
白色・ピンク色・黒色の滑石を紙ヤスリで磨いて、オリジナルのまが玉を作ることができます。
★当日先着順、有料。
世界の美術館が所蔵するアート作品を高解像度の画像で閲覧できたり、美術館内をストリートビューで見られたりするプロジェクト。埼玉古墳群を360度バーチャル体験できる他、国宝展示室を画面上で閲覧することができます。
「KOFUN(コフン) QUEST(クエスト)」
「古墳時代への時間旅行」
の2種類をお楽しみいただけます。
【会 場】同館・埼玉古墳群
【参加費】無料(要入館料)
【問合せ】県立さきたま史跡の博物館
郵便番号:361-0025 行田市埼玉4834
【電話】048-559-1181
県立さきたま史跡の博物館のホームページ
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