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掲載日:2023年12月5日

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三富地域の歴史

近世初期の武蔵国の開発は、湧水や溜井、小河川などを利用し、自然堤防上や後背湿地の周辺部に畑を中心とし小規模に行われるに留まっていました。三富地域の所在する武蔵野台地は、関東ローム層に覆われて飲料水が得にくく、台地を流れる河川の流域をのぞいては、萱原と疎林からなる中世以来の広大な原野のままでした。原野は、周辺農村の農民が肥料・飼料・燃料など生産と生活の必須物資を得る場として利用していました。

徳川氏は関東入国とともに大規模な河川改修を開始し、灌漑用水及び排水路の整備とともに、それまで開発が遅れていた沖積低湿地の新田開発を大規模に進めました。慶安期(1648~52)に成立したといわれる『武蔵田園簿』には、「新田」の名称を付した村は、武蔵国22郡で108か村記載されていますが、そのうち80パーセントを超える87か村(石高1万5千700石余)が足立・埼玉・葛飾の三郡に集中していました。これは、利根川・荒川の改修、用・排水路の開削、見沼溜井の造成などによるところが大きかったと考えられます。

この東部低地の開発の進展に対して、西部の台地では川越藩主松平氏・柳沢氏の手によって開発が推進され、平安以来の文学に登場する武蔵野の「萱の野原」のイメージは次第に変貌していくことになります。

松平信綱は、承応2年(1653)から、新座郡野火止(新座市)の新田開発に着手しました。入植農民の飲料水は、多摩郡小川村(東京都小平市)で玉川用水から分水する野火止用水を開削して確保しました。寛文元年(1661)に成立した野火止新田4か村(野火止村、菅沢村、西堀村、北野村)は、川越街道の両側に屋敷地・耕地・野が続くという奥行き400間程度の短冊形の耕地形態であったことが知られています。三富新田や享保期に将軍吉宗の新田開発政策のもとで開発された多摩・入間・新座・高麗4郡の新田に先行して、短冊形の新田村落の景観がここに成立していたのです。野火止用水は飲料水としてばかりでなく、灌漑用水としても利用され、周辺の開発を促進する役割を果たしました。

農業を支えてきた雑木林三富地域の農業を支えてきた雑木林

元禄7年(1694)1月に川越藩主となった柳沢吉保は、当時入会秣場であった現在の三富の地に新田を開発しました。まず吉保は、川越城から3里南の「地蔵林」を拠点とし、東西33町・南北20町の地に、1戸分約5町歩(約5ha)の耕地を短冊形に均等に配分することを決定しました。1戸分の間口は40間(約72m)、奥行きは375間(約675m)とし、幅6間(10.8m)の道路を通し、両側にそれぞれ屋敷・耕地・雑木林を短冊形に配置しました。雑木林(平地林)は薪や堆肥とする下草を刈るためのものでした。確保が困難な水については、三富全域で11か所の深井戸(約22m)を掘削して数軒の共同利用としました。開発名主の忠右衛門(島田氏)が元禄12年に記した「武蔵野古来記」によると、開発は元禄9年(1696)に一応完成し、同年5月に検地を受けたということになっています。検地帳によれば、このときの三富新田は上富・中富・下富の3か村合わせて914町余に上り、総高は3463石余となっていますが、一方で極めて生産性が低かったといわれています。1戸あたり5町歩前後という反別の広さは、開発当初の低い生産性を補うためであったと考えられています。入植者は主に周辺村落から移住してきましたが、開発に失敗して帰郷するものもあり、一様に定着しなかったようです。入村当初、上富村の農民は亀久保村の地蔵院を、中富村・下富村の農民は大塚村(川越市)の西福寺をそれぞれ菩提寺としましたが、元禄9年に多福寺が創建されると、すべてその檀家となりました。また「三富」の名称は、「論語」の子路篇より採ったことが知られています。

 

三富開発に参加した農民からは、元禄13年(1700)以降、年貢納入が開始されました。開拓当初は、アワ、ヒエなどの雑穀ぐらいしか収穫できなかったようですが、寛延4年(1751)サツマイモがもたらされ、文化年間(1804~17)にはその生産が拡大し、「富(とめ)のイモ」として有名になりました。平地林には、ナラ、エゴ、赤松などが育てられ、防風林として、また燃料となる薪、堆肥(肥料)となる落ち葉の供給源となりました。その後の、入植者とその後裔の営々たる努力によって、現在の豊かな農地が作られ、地割景観が保全されてきたのです。


地割りの様子三富新田の地割り

 

三富開拓地割遺跡内の文化財

(1)多福寺(三芳町上富)

三富開拓の入植農民の菩提寺として、元禄9年に川越藩主柳沢吉保の命により創建されました。山号は三富山。以下のような三富開拓に関連する文化財があります。

  • 銅鐘(県指定文有形化財)・・・三富新田の開発の歴史を物語る。元禄9年の銘文を持つ。
  • 多福寺の穀倉(町指定文化財)・・・天保10年の建築
  • 元禄の井戸(町指定史跡)・・・開拓時に飲料水として掘削した井戸跡

三芳町内の多福寺の山門多福寺の山門

(2)木ノ宮地蔵堂(三芳町上富)

江戸初期に創建。三富開発の拠点となった「地蔵林」は、ここを中心とするものであったと思われます。現在の建物は農民の出資による明和6年(1769)の再建。内陣の天井に107枚の天井画(再建時作成)が描かれ、堂内には52枚の絵馬が奉納されています。

  • 木ノ宮地蔵堂奥之院石造地蔵座像(町指定有形文化財)・・・寛永19年(1642)の紀年銘。
  • 木ノ宮地蔵堂絵馬(町指定有形文化財)・・・江戸中期の寛延3年(1750)から昭和60年代に至る奉納絵馬。

(3)旧島田家住宅(三芳町上富)

旧島田家住宅(町指定有形文化財)は文化・文政期(1804~29)の建築。三富開拓地割遺跡内で最も古い民家建築。天保年間(1830~44)から明治7年まで、当時の当主島田伴完が寺子屋を開きました。平成7年度に上富小学校近くに移築・整備。

三芳町内の旧島田家住宅 旧島田家住宅

(4)毘沙門堂と多聞院(所沢市中富)

毘沙門堂(市指定有形文化財)、多聞院は開拓農民の祈願所として多福寺とともに吉保によって建立されました。毘沙門堂は宝暦11年(1762)の再建。

所沢市内の毘沙門堂 毘沙門堂

(5)穀倉(所沢市中富)

江戸時代の納屋式の穀倉。(市指定有形文化財)

三富開拓地割遺跡の文化財指定

三富開拓地割遺跡は、開拓の歴史が明らかであること、多くの武蔵野台地に開発された新田村落が長い歴史の中で消滅していったのに対し、短冊状耕地が街村形態のまま残り、景観保存が極めて良いことから昭和3年に「三富開拓地割遺跡」として埼玉県の史跡に指定されました。
その後、昭和37年に、範囲が広いため、「現状変更の制限が無理なもの」として、許可制の史跡指定から届出制の旧跡に指定変更され、緩やかな規制によって地割景観の保全が図られることになりました。

参考文献

  • 『新編埼玉県史通史編3 近世1』(昭和63年)
  • 『三芳町史通史編』(昭和61年)
  • 大舘右喜「元禄初年川越藩政の一齣ー柳沢吉保の入封と三富ー」(『所沢市史研究』2号所収・昭和53年)
  • 根岸茂夫「雑木林の造成が武蔵野台地を変えた」(『埼玉自治』平成11年7月号所収)

お問い合わせ

企画財政部 土地水政策課  

郵便番号330-9301 埼玉県さいたま市浦和区高砂三丁目15番1号 本庁舎2階

ファックス:048-830-4725

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