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■生年 文久 2年(1862年)

■没年 昭和25年(1950年)

■ゆかりの市町村 秩父市
秩父郡大宮郷(秩父市)生まれ。
剣道家。明治、大正、昭和の3代にわたって剣聖とたたえられました。
小野派一刀流の道場主である祖父の期待を一身に背負い、幼少時から剣術の英才教育を受けました。10歳の頃、神官塩谷儔について「四書五経」と書道を習うようになり、15歳では「秩父の小天狗」と言われるようになりました。明治12年(1879)、18歳の春に、上武合同剣術大会で「鬼岡田」の異名を持つ岡田定五郎に敗北したのをきっかけに、さらに自分を鍛える決意を固め、東京四谷の道場春風館を主宰する山岡鉄舟の門に入りました。
明治17年(1884)、祖父の死に際して秩父に帰り、祖父の遺業を継いで、明信館を守り育てる決意を固めました。同19年(1886)、山岡鉄舟の推挙で「警視庁元町警察署世話係」を拝命され、署員に剣道の指導を行うようになりました。その後、一時秩父に引き上げますが、同21年(1888)に埼玉県警察本部傭員を命ぜられ、浦和(さいたま市)に浦和明信館を建てて家族とともに移り住み、翌年より巡査教習所で剣道を指導するかたわら、明信館に来る青年たちに指導を行うようになりました。同29年(1896)には埼玉県警部に任ぜられ、巡査教習所と埼玉県師範学校の武術教授になりました。その他、明治40年代に大学、高等専門学校における剣道が活発になると、東京高等師範学校撃剣科講師、東京高等工業学校剣道師範、早稲田大学剣道部講師等を任ぜられました。
明治44年(1911)4月には、10年以上もの間、その建設に努力してきた埼玉県武徳殿が県庁裏に完成しました。
また、同年6月に大日本武徳会から全国の剣道形を統一制定するための調査委員兼主任を嘱託され、成果を大正6年(1917)に公表しました。
大正2年(1913)、52歳の時に「剣道範士」の称号を授与されました。
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